元ジャニーズでありながら、今では“新御三家”の一人として昭和歌謡を象徴する存在になった郷ひろみさん。
「どうしてジャニーズを辞めたんだろう?」「今はどんな事務所で活動しているんだろう?」と気になっている方も多いと思います。
この記事では、ジャニーズ退所の背景や現在の所属事務所はもちろん、学歴やこれまでの華やかな経歴、そして気になる推定年収までを、最新の情報を織り交ぜながら、同じファン目線でたどっていきます。
郷ひろみがジャニーズを辞めた理由
ジャニーズ時代の郷ひろみさん🤗 pic.twitter.com/Ti9IMW3Trs
— ギシ岡面ライダー (@d0mugmtHdMWWOsL) November 5, 2022
郷ひろみさんは、1971年頃に高校1年生でジャニーズ事務所に入り、1975年頃まで在籍していたとされています。
デビュー直後から一気にスターの階段を駆け上がっていき、当時からすでに“別格扱い”の存在だったと言われています。
合宿所では、他の所属タレントが普通の食事をしている横で、郷ひろみさんだけがジャニー喜多川さんと同じステーキを出されることもあったそうです。
聞いているだけでも、かなりの“特別枠”だったことが伝わってきますよね。
一方でレッスンになると誰よりも厳しく指導され、「また今日も何か言われるんだろうな」と毎日プレッシャーを感じていた、といったエピソードも語られています。
そんな、優遇と厳しさの両方を一身に受けるような環境の中で、郷ひろみさんの中には「いつまでも守られた場所にいるのではなく、自分の力で勝負していきたい」という思いが少しずつ育っていったようです。
「そろそろ次のステップに進む時期なのかもしれない」という感覚も強くなっていった、と紹介されることが多く、10代の終わりにしてはかなり覚悟のいる決断だっただろうなと感じます。
インタビューなどでも郷ひろみさんは、
「ジャニーズとは別の場所で成長していきたい」
といったニュアンスの言葉を何度か口にしています。
そうしたコメントを総合すると、退所はトラブルというより、前向きな“独立・自立の選択”として受け止められている印象です。
当時すでにソロ歌手としての人気は確立していて、「もっと自分を追い込みたい」「活動のフィールドを広げたい」という自己成長への意識が、ジャニーズを離れた大きな理由だったと考えられます。
私たちから見ても、「守られたスター」から「自分で選び取るアーティスト」への転換点のように感じられますよね。
なお、2023年以降に報道されているジャニー喜多川氏の性加害問題との関係については、郷ひろみさん本人が自らの被害を公に語った公式なコメントは、現時点では確認されていません。
報道の中で郷ひろみさんの名前が出てくるのは、「当時のトップスターの一人」として、元付き人など別の人物の証言に付随して言及されるケースがある、という程度にとどまっています。
このあたりは、事実として確認できている範囲と、憶測が入りがちな部分を切り分けて受け止めたいところです。
郷ひろみの現在の所属事務所
郷ひろみさんは、現在「バーニングプロダクション」に所属しています。
日本の芸能界の中でも、長年にわたって強い存在感を放ち続けている大手事務所の一つで、多くの歌手や俳優、タレントが在籍していることでよく知られています。
さらに、若手俳優やタレントが多く所属する「エヴァーグリーン・エンタテイメント」とは業務提携という形で関わっていて、公式プロフィールなどでも
「バーニングプロダクション所属/エヴァーグリーン・エンタテイメントと業務提携」
と表記されています。
事務所の看板だけでなく、世代やジャンルをまたいだサポート体制が整っているのが伝わってきます。
バーニングプロダクションは、歌番組やドラマ、バラエティとの強いつながりに加えて、ヒット曲を持つ歌手を長期的にマネジメントしてきた実績が大きな特徴とされています。
ソロ歌手として第一線で走り続けている郷ひろみさんにとっては、“長距離ランナーとして走り続けるためのベースキャンプ”のような環境と言えるかもしれません。
ジャニーズを退所したタレントの中には、その後しばらくテレビから姿を見かける機会が減ってしまう人もいますが、郷ひろみさんの場合は少し事情が違います。
すでにヒット曲と高い知名度を持っていたこと、そしてバーニング側の営業力や番組との強いパイプがあったことで、歌番組やドラマへの出演は途切れることなく続いていきました。
「ジャニーズを辞めても干されなかった人」として名前が挙がることが多いのは、こうした背景があるからだと感じます。
郷ひろみのプロフィールや経歴
4/18(火)は5年ぶりの東京ドーム開催。
— 埼玉西武ライオンズ (@lions_official) February 24, 2023
スペシャルゲストとして歌手の #郷ひろみ さんの来場が決定しました!試合後には郷さんのスペシャルライブを実施します!
▼詳細はこちらhttps://t.co/Bek0fes8FC#埼玉西武ライオンズ #seibulions pic.twitter.com/xal3DlJeac
名前:郷ひろみ
生年月日:1955年10月18日
出身地:福岡県
血液型:A型
身長:178cm
所属事務所:バーニングプロダクション
芸能界入りのきっかけは、本当に偶然の重なりでした。
近所の人が勝手に応募していた写真が映画オーディションで目に留まり、そこに居合わせたジャニー喜多川さんにスカウトされます。
本人としては予想もしていなかった形で人生が一気に動き出す感じで、ちょっと映画みたいだなと思ってしまいます。
高校1年生でジャニーズ入りし、1972年にはNHK大河『新・平家物語』で俳優デビュー、同年「男の子女の子」で歌手デビューと、まさに“即スタートダッシュ”。
「男の子女の子」はオリコンのベストテン入りを果たし、日本レコード大賞の新人賞も受賞しました。
この一曲をきっかけに、郷ひろみさんのヒット街道が本格的に始まります。
1973年にはブロマイド売上No.1となり、西城秀樹さん、野口五郎さんとともに「新御三家」と呼ばれるほどの大ブレイクへ。
「裸のビーナス」や「小さな体験」で賞を受賞し、『NHK紅白歌合戦』にも初出場。
まさに“テレビをつければ必ず見かける存在”だったという声もよく耳にします。
その後も勢いは止まらず、1974年の「よろしく哀愁」、1981年の「お嫁サンバ」、1984年の「2億4千万の瞳」など、時代を象徴するヒット曲を次々と生み出しました。
「2億4千万の瞳」は今も特番やライブで披露される代表曲で、サビが流れると自然に体が動くような感覚がありますよね。
1986年頃には一度活動を休止しますが、1990年代には「言えないよ」や「逢いたくてしかたない」で再び多くの人の心を掴み直します。
若い頃のアイドル的な輝きから、大人の魅力をまとった歌い手へと移っていく変化に、胸がぎゅっとしたという声もあります。
2000年代に入り、2005年「愛より速く」で再始動。
2020年には105枚目のシングル『ウォンチュー!!!』がオリコン7位に入り、昭和・平成・令和でオリコンTOP10入りという歴史的記録を達成しました。
この“時代を超えて活躍し続ける感じ”が、本当に郷ひろみさんらしいなと感じます。
最近はSNSでも盛り上がっていて、「昭和の郷ひろみ、イケメン度がすごい」「昔のFNSコラボ、今見ても鳥肌」という投稿が次々とシェアされています。
リアルタイム世代だけでなく、若い世代にまで“レジェンドとして普通にかっこいい”と再評価されているのが印象的で、時代をまたいで愛されている存在なんだと改めて感じます。
郷ひろみの年収
郷ひろみさんの年収は、公式には公表されていません。
ただ、複数の芸能系・経済系のサイトでは、推定2億〜3億円前後、あるいは「年収1〜2億円は十分にあり得る」といった試算が紹介されていて、いわゆる“億越え”の高収入である可能性が高いという見方が一般的になっています。
その背景としてよく挙げられるのが、コンサートやディナーショー、各種メディア出演など、さまざまな収入源があることです。
全国を回るコンサートツアーの興行収入に加え、ホテルなどで開催されるディナーショーはチケット単価も高く、一晩でかなりの売り上げになることもあると試算されています。
さらに、「2億4千万の瞳」や「お嫁サンバ」をはじめとした過去のヒット曲からの印税、テレビや音楽番組、特番の出演料、CMや企業イベント、プロ野球始球式後のミニライブなどの出演料、そして書籍や映像作品、不動産収入など、長いキャリアならではの収入の柱がいくつもあると考えられています。
とくにディナーショーは、“レジェンドクラス”の歌手だからこそ成立するビジネスとも言われます。
年末シーズンには各地の公演が完売することも多く、この分野だけでも年収に与えるインパクトはかなり大きいと見られています。
1970年代の新御三家ブームの頃は、今とは物価も契約の仕組みも違うため単純比較はできませんが、当時はレコードやグッズ、テレビ出演がピークだった時代。
現在は、長年の印税と興行、メディア出演が組み合わさった“安定した高収入”という構図に移ってきているように感じます。
いずれにしても、長い時間をかけて積み上げてきたキャリアが、今もしっかりと形になっていることだけは確かだなと感じます。
郷ひろみの学歴
ここからは、郷ひろみさんの学歴について、小学校から大学まで順番にたどっていきます。
華やかな芸能活動の裏側で、どんな学生時代を過ごしてきたのかを知ると、また違った一面が見えてきます。
郷ひろみの出身小学校
郷ひろみさんは、東京都の品川区立山中小学校の出身です。
小学生の頃から野球を始めていて、当時は本気で「プロ野球選手になりたい」と夢見ていたそうです。
今のキレのあるダンスや体力、ブレない体幹を見ていると、「なるほど、子どもの頃から運動神経が良かったんだろうな」と妙に納得してしまいますよね。
歌手になる前の“スポーツ少年・郷ひろみ”を想像すると、ちょっと親近感がわきます。
郷ひろみの出身中学
中学校は、品川区立伊藤中学校に進学しました。
この学校は、学校教育法の改正などにともない、2016年4月に廃止されています。
中学時代の郷ひろみさんは、友人たちと草野球チーム「ハーキュリーズ(Hercules)」を結成し、本気で野球に打ち込んでいたと伝えられています。
芸能界にスカウトされていなければ、そのまま高校野球や社会人野球の道を目指していてもおかしくなかったのでは…と想像してしまうほどです。
今も時々、バラエティなどで野球の話になると目を輝かせているのを見ると、当時の熱量がうかがえます。
郷ひろみの出身高校
中学校卒業後は、まず日本大学櫻丘高等学校に進学しました。
当時の偏差値はおおよそ60前後とされていて、学力的にも決して簡単な学校ではありません。
高校では野球部に所属し、引き続き野球中心の生活を送っていましたが、一方で芸能活動も本格化していきます。
レッスンや撮影、レコーディングと、どんどん仕事が増えていくなかで、通常の高校生活との両立が難しくなっていったようです。
そこで、芸能活動と学業を両立しやすい環境を求めて、堀越高等学校の芸能活動コース(現在のトレイトコース)に編入します。
堀越高校のこのコースは、撮影や収録で欠席が多くなりがちな芸能活動中の生徒に合わせて、時間割や出席の扱いを柔軟に調整してくれることが特徴とされています。
多忙なスケジュールの中でも、郷ひろみさんは5年かけて高校を卒業しました。
売れっ子アイドルとしての仕事を抱えながらも、時間をかけてきちんと卒業までたどり着いたところに、真面目さや責任感がにじんでいるように感じます。
「どれだけ忙しくても、投げ出さずにやり切る」という性格は、この頃からすでに表れていたのかもしれません。
郷ひろみの出身大学
高校卒業後は、1年間の浪人期間を経て、日本大学の法学部に進学します。
現在の偏差値はおおよそ53前後とされていて、「大学には進んでおきたい」という気持ちがあったことが、いくつかのインタビューで語られています。
ただ、その頃の郷ひろみさんは、すでにトップクラスの人気タレント。
撮影やレコーディング、コンサートツアーなど、芸能活動はさらに忙しくなっていて、学業との両立は想像以上にハードだったようです。
結果的に、郷ひろみさんは芸能活動に専念するため、日本大学法学部を中退する決断をします。
後年のインタビューでは、「学業に専念できる状況ではなかった」と振り返っていて、どこか悔しさや心残りのようなものもにじんでいるように感じました。
それでも、そのときの選択があったからこそ、今の長いキャリアにつながっていると思うと、人生の岐路の重さをあらためて感じさせられます。
まとめ
改めて振り返ってみると、郷ひろみさんは、近所の人が応募した一枚の写真がきっかけでジャニーズにスカウトされ、そこから一気にスターへの道を走り始めました。
ジャニーズ時代は特別扱いと厳しい指導の両方を受けながら、「次のステップに進みたい」という思いを強めていき、1970年代半ばには前向きな独立の道を選びます。
その後はバーニングプロダクションに所属し、「新御三家」の一角として昭和歌謡の黄金期を支えながら、平成・令和へと活動の幅を広げていきました。
小・中・高と野球漬けの学生生活を送り、高校では堀越高校の芸能コースに編入して5年かけて卒業。
日本大学法学部に進学するも、芸能活動との両立の難しさから中退し、芸能の道に全力投球していきます。
現在もコンサートやディナーショー、テレビ出演などで精力的に活動を続けており、推定年収は“億越え”と見られています。
SNSでは1970〜90年代の映像を振り返りながら、「やっぱり郷ひろみは永遠のアイドル」「若い頃も今もかっこよすぎる」と盛り上がる投稿が今でもたくさんありますよね。
70歳を迎えてなお、全力で歌って踊る姿は、多くの人に「年齢ってただの数字かもしれない」と感じさせてくれるような、不思議な説得力があります。
これからも郷ひろみさんが、どんな形で新しいステージを見せてくれるのか。長年のファンも、最近気になり始めた人も、一緒に見守っていきたくなる存在だなと感じます。
