大相撲で史上初めて外国出身横綱になった曙太郎さんは、学生時代どこの学校に通っていたのでしょうか。
何故相撲を引退したのでしょうか。
今回は、曙太郎さんの経歴や出身学校、引退理由などについて調べてみました。
曙太郎の本名や国籍は?
曙太郎さん…昔、逃走中に出演してた際ミッションクリアの鍵を握る重要な役として登場してたのを鮮明に覚えています。
— giga (@4FKi7Eipxw3xA4H) April 11, 2024
正直私はその印象でしかありませんがあの巨大な身体は一生忘れないでしょう。
佐吉の兄…譲二…本当にありがとう。
謹んでご冥福をお祈り致します。#曙太郎 pic.twitter.com/6hGjqyDFiO
曙太郎さんの出生名は「チャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン」さんです。
その後1996年4月22日に日本に帰化したため、「曙太郎」が本名になりました。
曙太郎の学歴
曙太郎さんが通っていた学校について調べてみました。
曙太郎の出身小学校
出身小学校は公表されていません。
出身地であるハワイの学校に通っていたと思われます。
曙太郎の出身中学
出身中学校も公表されていません。
ネット上でも情報はありませんでした。
曙太郎の出身高校
出身高校も公表されていません。
高校時代のエピソードも不明です。
曙太郎の出身大学
高校卒業後は、ハワイ・パシフィック大学に進学しました。
バスケットボールをやっていた曙太郎さんですが、講義の単位よりも部活を優先させるコーチとの対立、わずか3か月で中退しています。
曙太郎が引退した理由
2001年1月22日、曙太郎さんは力士を引退することを公表、同年9月場所後に引退相撲が行われました。
曙太郎さんが引退を決断した理由は、度重なる膝の故障です。
2001年の初場所を全休し、回復が見込めないことから「横綱として、みじめな姿で土俵に上がれない」と引退を決断しました。
膝をめぐる苦悩は相撲を始めるずっと前の10歳のときからで、曙太郎さんは「10歳のときにアメフトで横からぶつけられて、半月板を損傷して手術した。それがずっと尾を引いていた」と明かしています。
曙太郎の引退後の入場曲
相撲を引退した曙太郎さんは、プロレスラー・格闘家に転向しました。
入場曲は親友が作ったというレゲエ「Time to Fight」です。
曙太郎の引退後の年収
曙太郎さんの年収は公表されていません。
力士としては横綱まで上り詰めた曙太郎さんでしたが、格闘家としては大きな結果を残せなかったため年収は数百万円ほどだったのではないかと思われます。
曙太郎のプロフィールや経歴
曙太郎さんと言うと、5000cc超えの超大型バイクに乗っていらっしゃったと言う方……(偏った知識) pic.twitter.com/ZGb4LP0xVJ
— オチアイ🐧レブル250銀箱(雄) (@ochiai_katakana) April 11, 2024
名前:曙太郎
生年月日:1969年5月8日
出身地:アメリカ合衆国
血液型:O型
身長:204cm
スカウトをきっかけに相撲界入りした曙太郎さんは、1988年3月場所に初土俵を踏みました。
1990年春場所に新十両、同年秋場所で新入幕を果たすと同期の若貴兄弟らと激しく出世競争を繰り広げ、1993年初場所後に第64代横綱に昇進、11度の幕内優勝を飾っています。
2001年の力士引退後は親方として日本相撲協会に残っていたものの、2003年に協会を突然退職、格闘技「K-1」への参戦を表明、デビュー戦となった同年大みそかのボブ・サップさんとの対戦ではKO負けし話題を集めました。
その後もレミー・ボンヤスキーさん、チェ・ホンマンさんらとも対戦、フリーランス・レスラーとして全日本プロレスやハッスルなどをはじめ様々な団体、興行に参加しました。
タレントとしても活動し、2014年には映画『テルマエ・ロマエII』に出演しています。
まとめ
スカウトをきっかけに相撲をやることになった曙太郎さんですが、力士時代の活躍は今も多くの人の心に残っています。
これからは空の上でゆっくり過ごしながら、相撲や格闘界を見守ってほしいと思います。