皇族の中でも知性派として知られる彬子女王ですが、実はご家族との関係について、かねてより「不仲なのでは?」と噂される場面がたびたび話題になっています。
とくに母親との確執をめぐっては、過去の発言や報道が注目され、「本当に仲が悪いのかも…」と感じた方もいるのではないでしょうか。
この記事では、彬子女王と母親との関係性をはじめ、父親である寛仁親王や妹・瑶子女王についても詳しくご紹介します。
噂の真相を整理しつつ、家族それぞれの人物像にも触れながら、彬子女王の背景をより深く知るきっかけになればと思います。
彬子女王の母親は寛仁親王妃信子
お帰りなさいませ。
— 月島 (@CleverBlocker11) August 8, 2023
寛仁親王妃信子さまは8日、訪問先のハンガリーから民間機で羽田空港に帰国されました。 pic.twitter.com/6LibcWrksJ
彬子女王の母親は、寬仁親王妃信子(ともひとしんのうひ のぶこ)さんです。
皇室の中でも華やかな家系背景を持つ人物であり、一般の人々にとってもその出自や活動内容には注目が集まっています。
まず、信子さんのご出身は旧伯爵家・牧野家。
曽祖父には明治の元勲・牧野伸顕が、祖父には戦後日本の礎を築いた政治家・吉田茂元首相が名を連ねています。
さらに、実兄は第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎さん。まさに政財界の重鎮が揃う名家に生まれた信子さんは、皇室と政界をつなぐ存在としても知られています。
1972年には寬仁親王とご成婚され、皇族としての生活をスタート。以来、さまざまな公的役職を歴任し、日本赤十字社名誉副総裁や社団法人東京慈恵会総裁など、医療や福祉、文化に関わる分野で多くの活動を行ってきました。
特に注目されているのが、一般社団法人日本童謡学会名誉総裁や財団法人日本ばら会名誉総裁としてのご活動です。
童謡やバラといった、感性や文化を育む領域に関心を持ち続けている点からも、皇族としての品格とともに柔らかな人間味を感じさせてくれますよね。
一方で、公務以外の場面でも、信子さんの発言や行動はしばしばメディアに取り上げられてきました。
特に精神的な不調を公表された時期には、大きな反響がありましたが、その後は公務復帰も果たしており、皇室の中でも「人間らしい強さと弱さを見せた存在」として多くの人に印象を残しています。
母親としての信子さんと彬子女王の関係については、距離を置いていた時期があるとも言われていますが、それが公的な確執なのか、プライベートな選択なのかについては明言されていません。
皇族という特別な立場での親子関係には、私たちが想像しにくい側面もあるかもしれませんね。
このように、信子さんは「皇族の妻」「文化活動の担い手」「名家の出身者」という多くの顔を持ちながら、時代の変化の中で自らの在り方を模索し続けてきた人物です。
彬子女王の価値観や生き方にも、きっと少なからぬ影響を与えてきた存在なのではないでしょうか。
彬子女王と母親・寛仁親王妃信子の確執がやばい?
皇尊(すめらみこと)弥栄(いやさか)!
— 九段下しんのすけ (@kudansita2000) May 15, 2021
春の園遊会に臨まれる寛仁親王妃信子さま、三笠宮家の彬子さま、三笠宮家の瑶子さま、高円宮妃久子さま、高円宮家の承子さま、高円宮家の絢子さま=東京都港区の赤坂御苑で2018年4月25日#皇室を守ろう pic.twitter.com/MUlVKpL6iA
彬子女王とその母・寬仁親王妃信子さんとの関係については、長年にわたり「確執があるのではないか」との噂が絶えません。
皇族という公の立場であるにもかかわらず、親子の関係性がこれほど注目されるのは異例とも言えますが、それには明確な理由があります。
きっかけとなったのは、彬子女王ご本人による発言でした。
ある機会に、彬子女王は「十年以上、母ときちんと会話をしていない」と語り、父・寬仁親王の死後も何度となく話し合いの機会を求めたにもかかわらず、「代理人を通じて断られ続けている」という現状を明かしています。
これらの言葉が公の場で紹介されたことにより、メディアやSNSでは「関係が修復不可能なほどにこじれているのでは?」という声が広がりました。
また、現在も親子は別々の住居で暮らしており、直接のやりとりはほとんどないとされています。
こうした背景から、「不仲」や「絶縁状態」というワードが独り歩きしやすくなっているのかもしれませんね。
ただし、この確執の詳細については当事者以外にとっては憶測の域を出ない部分も多く、なぜここまで距離ができてしまったのかについての明確な理由は、公にはされていません。
それゆえに、さまざまな仮説や憶測が飛び交ってしまっているのが実情です。
信子さんが精神的な不調を抱えていた時期があったことは過去の報道でも触れられており、そうした健康面や心情の変化が親子関係に影響を与えた可能性も否定できません。
一方で、彬子女王は文化や研究活動を積極的に展開し、独自の公務をまっとうしているなど、自己確立された生き方を選ばれています。
そのため、距離を置くことで双方が精神的に安定した日々を過ごしているとも考えられますよね。
皇族という立場は、家族関係も含めて多くの期待や注目が集まるものです。
しかし、あくまで個人同士の関係である以上、親子といえども「理想的な関係」でいられないこともあるという現実を、この親子の距離感が物語っているのかもしれません。
確執という言葉に注目が集まりがちですが、背景には複雑な事情や立場、時代の変化が絡んでいる可能性も大いにあるでしょう。
あ今後、どのような形であれ、お互いが心安らかに過ごせるような関係性に近づいていくことを願いたいものです。
なぜ三笠宮彬子女王と信子妃親子は不仲?
彬子女王殿下と寬仁親王妃信子さまは、彬子さまの誕生から折り合いが合わなかったというわけではありません。
彬子さまが何故お母さまと連絡を取らないまでになってしまったのか、調べてみました。
彬子女王と信子妃が不仲な理由①不信感を抱いているから
寬仁親王妃信子さまは、とても躾に厳しい方でした。
「暴力は伴わないものの、娘達を立たせたまま数時間も説教したりするなど、母親としての躾・教育を逸脱した精神的虐待を日常的に繰り返していた」と言われており、周囲も心配するほどだったそうです。
さらに、お父様の三笠宮寛仁親王親王殿下がアルコール依存症だと世間に打ち明ける数年前に、寬仁親王妃信子さまが病気療養を理由に別居、しかし別居の本当の理由は三笠宮崇仁親王殿下からの暴力から逃れるためだったという説もあります。
彬子さまは後に「私が見ていた限り、父が母に対して手を上げたことは一度もありませんでした」と暴力は否定しているものの、病気で大変な父親を置いて出て行った母親を許せなかったことで、関係に亀裂が入ってしまったといわれています。
三笠宮崇仁親王殿下の葬儀に寬仁親王妃信子殿下が参列されなかったこと、また寬仁親王妃信子さまが当主を継がれることに彬子女王が反対なさったことが公になり、夫婦の軋轢が母娘の断絶へと転じてしまったとのことでした。
彬子女王の父親は寛仁親王
先日6月6日は寛仁親王殿下が薨去されて12年の御命日。
— nabehiro (@nabehirodesu) June 8, 2024
殿下は生前女系天皇に反対し、旧宮家の皇籍復帰を求めていました。
1日も早く旧宮家の皇籍復帰を実現し、女系天皇の議論に終止符を打ちましょう!#旧宮家の皇籍復帰#皇室に敬意を pic.twitter.com/7acpraIYSH
彬子女王の父親は、三笠宮寛仁親王(ともひとしんのう)です。
戦後の皇族の中でも、とくに個性的で親しみやすい存在として国民から広く親しまれてきました。
一般には「ヒゲの殿下」という愛称で知られており、その由来は、皇族としては珍しく髭をたくわえていた独特の風貌にあります。
寛仁親王は、三笠宮崇仁親王と百合子妃の長男として1946年に誕生しました。三笠宮家は昭和天皇の弟・崇仁親王の家系にあたるため、彬子女王は天皇家から見ても近縁にあたる立場となります。
学歴としては、学習院初等科から高等科まで一貫して学習院で学んだのち、カナダの名門ビクトリア大学へも留学。
若い頃から国際的な視野を培い、文化交流や教育問題にも深い関心を持っていたことが知られています。
また、寛仁親王は社会問題や福祉分野への発言や行動でも注目される存在でした。
とくに障害者福祉やがん医療に関する啓発活動には積極的で、講演や寄稿を通じて一般社会との橋渡し役を担ってきた人物です。
ときには率直な発言が話題になることもあり、良くも悪くも「発言する皇族」として異彩を放っていました。
健康面では長年にわたり咽頭がんとの闘病を続けており、何度かの手術や治療を経て公務に復帰された時期もありました。
しかし、2012年6月6日午後3時35分、多臓器不全のため66歳で逝去。
その死は全国的に報じられ、葬儀には多くの関係者や国民が弔意を示しました。
亡くなられた後も、「人間味ある皇族」として語り継がれる寛仁親王の姿勢は、多くの人の記憶に残っています。
皇室の中でも庶民的な視点を大切にされていた方で、娘である彬子女王の人格形成にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
彬子女王が現在行っている文化研究や社会貢献の活動には、父・寛仁親王から受け継いだ理念や思いが色濃く反映されているようにも見えます。
型にはまらない行動力と、人と社会をつなぐ発信力――その姿勢は、まさに父から受け継がれた「行動する知性」なのかもしれませんね。
彬子女王の妹は瑶子女王
7月21日~22日開催のスーパーフォーミュラ第4戦富士は「第1回瑶子女王杯」に https://t.co/YxYVyvc4DO #sformula #スーパーフォーミュラ #富士スピードウェイ pic.twitter.com/4bwncP1JZB
— Car Watch (@car_watch) June 26, 2024
彬子女王の妹は、瑶子女王です。
瑶子さまは2003年に成年を迎え、皇族身位令により第125代天皇明仁から勲二等宝冠章(のちの宝冠牡丹章に相当)を受けました。
2006年12月から2012年11月まで日本赤十字社(事業局組織推進部青少年・ボランティア課を経て血液事業本部販売管理課)で嘱託ながら常勤で勤務していました。
現在、存命中かつ皇籍離脱していない皇族15名のうちのひとり、天皇の血を直系で受け継ぐ男系皇族(親王・内親王・王・女王)8名のうちのひとりです。
彬子女王の実家は赤坂の宮廷
彬子女王が育った実家は、東京都港区元赤坂に広がる赤坂御用地内にありました。
赤坂御用地は、皇族方の住まいが点在する日本の中枢的なエリアであり、自然に囲まれた静謐な環境が整えられています。
彬子女王のご実家も、そんな由緒ある空間の一角に位置していたことで知られています。
もともとこの御用地内にあった住まいは、父・寬仁親王の邸宅として使用されており、「寬仁親王邸」として皇室関係者や関係省庁などの公的記録にも記載されていました。
そして、2012年に寬仁親王が逝去された後、翌2013年7月31日付でこの邸宅は「三笠宮東邸」と名称を変更。
これは、宮内庁の管理上の名称整理と、寬仁親王家の構成や居住状況の変化に対応する措置だったと見られています。
赤坂御用地は、天皇・皇后両陛下が暮らす「赤坂御所」や、他の皇族の方々の邸宅が並ぶ、いわば皇族の「生活と公務の拠点」。
その中にある「旧寬仁親王邸」は、彬子女王が幼少期から長年過ごされた場所でもあり、学業や皇族としての教養が育まれた原点とも言える存在です。
ただし、現在の彬子女王はこの実家を離れ、京都を拠点に活動されているとされます。
文化史の研究者としての道を歩んでいることもあり、日本の伝統が息づく京都は、研究にも生活にもふさわしい場所といえるでしょう。
このように、彬子女王の「実家」は単なる居住地ではなく、皇室の一員としての役割を学び育まれる場であり、同時に家族の思い出が詰まった特別な場所でもありました。
そしてその後、邸宅の名称が変わったことや、現在の居住地が京都になっていることなどからも、皇族としての節目や時代の移り変わりが感じられますよね。
なお、赤坂御用地そのものは一般公開されておらず、地図上でも詳細な建物配置などは非公開とされています。
そのため、実際の邸宅の様子や内部の生活については公に語られることはほとんどありませんが、赤坂の地が皇室にとってどれほど大切な場所かを物語る一端にはなっています。
彬子女王にとって赤坂御用地は、育った土地であり、父・寬仁親王との思い出が刻まれた「心の原点」でもあるのかもしれませんね。
彬子女王の生い立ち
1981年12月20日に誕生した彬子女王は、1947年10月に11宮家が皇籍離脱して以来、かつ現皇室典範における初の女王誕生となりました。
2001年には成年に達したことにより、勲二等宝冠章(現:宝冠牡丹章に相当)を受章しています。
大学時代はイギリスのオックスフォード大学マートン・カレッジに留学し日本美術史を専攻、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行っていました。
2010年1月にオックスフォード大学大学院博士課程を修了して博士号(D.Phil.)を取得、博士号取得は秋篠宮文仁親王に続き皇族として2人目、女性皇族として史上初、海外の大学からの課程博士号取得は皇族として史上初になりました。
まとめ
お母さまとの関係は今も変わりはないようですが、彬子さまは三笠宮家を守るために活動を行っています。
彬子さまらしく笑顔で幸せな日々を過ごしていけるよう、今後も見守っていきたいと思います。
