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辻口博啓の嫁や子供は?読み方や年収・出身高校や大学|実家や両親兄弟も調査

tsujiguchihironobu_career 料理人

パティシエの辻口博啓さんは、どんな人なのでしょうか。

どんな家庭で育ち、どこの学校に通っていたのでしょうか。

今回は、辻口博啓さんの経歴や出身学校、家族、結婚などについて調べてみました。

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辻口博啓の嫁はどんな人?

辻口博啓さんは、既婚者と言われています。

ただ奥さんについては一般女性のようで、名前や顔写真などは公開されていません。

メディアに出たこともないため情報が一切ありませんでした。

辻口博啓の子供は?

辻口博啓さんの子供についてもはっきりとした情報はありませんでした。

ネット上では「3人いる」と噂されています。

子供たちの年齢や性別、学歴などは不明です。

辻口博啓の名前の読み方

辻口博啓さんの名前は、「つじぐち ひろのぶ」さんと言います。

由来については明かされていませんでした。

辻口博啓のプロフィールや経歴

名前:辻口博啓
生年月日:1967年3月24日
出身地:石川県
血液型:A型
身長:非公開

高校卒業後に東京都内のフランス菓子店に住み込みで修行を重ねた辻口博啓さんは、1990年に史上最年少の23歳で「全国洋菓子技術コンクール」優勝しました。

その後も多くの国内大会で優勝したため、「コンクール荒らし」と呼ばれていたそうです。

1994年にはフランスの「コンクール・シャルル・プルースト」で銀賞を獲得、1997年にパティシエのワールドカップと呼ばれる「クープ・ド・モンド・ドゥ・ラ・パティスリー」のあめ細工部門で優勝しています。

そしてフランスのセット市にあるMOF(フランスの国家最優秀職人章)の称号を持つ洋菓子店「パティスリー・ベルタン」で修行を重ね、1998年3月に東京・自由が丘に「モンサンクレール」をオープンしシェフパティシエに、2001年にはオーナーパティシエになりました。

2000年にはガストロミックの会モンタニエよりシュバリエを受賞、料理オリンピックのイタリア代表としてドイツに招かれたことによりイタリア鉄人協会会員になりました。

2011年10月にSUPER SWEETS SCHOOL自由が丘校を開校、2012年4月には石川県に「スーパースイーツ製菓専門学校」(学校法人国際ビジネス学院)開校し、学校長に就任しています。

さらに2013年にスーパースイーツ製菓専門学校の別科「アトリオ」開校、C.C.C.のショコラ品評会で最高位「5タブレット+★」を受賞しました。

辻口博啓の年収

辻口博啓さんの年収は公表されていません。

パティシエの平均年収は数百万円ほどといわれていますが、辻口博啓さんは世界でも活躍している方で、メディアに出たり、パティシエ以外の仕事もこなしているため数千万~億越えの年収になるのではないかと思われます。

辻口博啓の学歴

辻口博啓さんが通っていた学校について調べてみました。

辻口博啓の出身小学校

辻口博啓さんは、七尾市立小丸山小学校出身です。

3年生の時には将来お菓子の道に進むことを決めていました。

辻口博啓の出身中学

小学校卒業後は、七尾市立御祓中学校に進学しました。

こちらの学校は2017年に閉校しています。

中学ではテニスを始め、能登エリアで3位になっています。

辻口博啓の出身高校

中学校卒業後は、石川県立中島高等学校に進学しました。

こちらの学校は2010年に閉校しています。

2年生の時には3年生も含めた全児童が参加するスポーツテストで1位になりました。

また3年生の時には極真空手を習い始め、船のさび落としのアルバイトもしていたそうです。

辻口博啓の出身大学

高校卒業後は、進学していません。

高校の紹介で都内の洋菓子店に就職しました。

辻口博啓の実家は和菓子屋

辻口博啓さんは、石川県七尾市出身です。

実家は祖父の代から続いた和菓子屋「紅屋」でした。

祖父が戦前から菓子づくりを学び、戦時中には軍でも和菓子づくりのような仕事に従事、戦後「これからは甘いものだ」と郷里で店を開いたのが始まりだったそうです。

辻口博啓さんが幼い頃には市内にすでに3店舗を展開、辻口博啓さんもお店の手伝いをし「長男だから」と店を継ぐことを意識していた時期もありました。

しかし辻口博啓さんが高校生の頃にはお店の経営が悪化、高校を卒業して2ヶ月後に倒産しました。

お母さん曰く、倒産の原因はお父さんのギャンブルだったそうです。

辻口博啓の生い立ち

1967年3月24日に誕生した辻口博啓さんは、両親ともお店の製造・販売・配達に朝から晩まで大忙しという生活だったため、祖父母と住み込みの従業員夫妻らに育てられました。

小学3年生の時に友達の誕生日会で食べた苺のショートケーキに衝撃を受け、特に生クリームに「世の中にこんなおいしいものがあったのか」と感じたそうです。

当時はまだ「パティシエ」という言葉はなかったため、辻口博啓さんは「ケーキ屋さんになる」と将来の夢を固めました。

学生時代は「勉強しなければ学校ほど楽しいところはない」というポリシーで、全く勉強はせず、目立ちたがり屋な性格もあり応援団長、生徒会長などをやっていたそうです。

辻口博啓の父親

辻口博啓さんのお父さんは一般人です。

和菓子屋「紅屋」の2代目でしたが、お店が潰れると「東京で働く」と言って家を出たまま連絡が途絶えてしまったそうで、18歳の辻口博啓さんはお父さんに対して憎しみしかなかったそうです。

しかし30代後半の時に出演したテレビ番組で実家の話をすると、それを見た江戸川区役所の職員から「身寄りのない、末期がんの患者が病院に運ばれてきているが、もしかしてあなたのお父さんではないですか?」という電話が来てお父さんと再会することが出来ました。

その後お父さんは手術が成功、出かけたり、話したりするようになりました。

風呂もないようなアパートに住んでいたお父さんですが、本棚には辻口博啓さんの本が何冊かあったそうです。

2004年に辻口博啓さんが和のスイーツ店「和楽紅屋」を開業して紅屋を復活させた際にもお父さんはとても喜び、辻口博啓さんがいない時でもお店の様子を見ていたそうですが、辻口博啓さんとの再会から6年後に亡くなっています。

辻口博啓の母親

辻口博啓さんのお母さんは、品川八重子さんと言います。

お母さんはお父さんが失踪した後、朝から晩まで3つの仕事を掛け持ちして子供たちを育てました。

辻口博啓の兄弟や姉妹

辻口博啓さんには、妹さんと弟さんがいます。

二人とも一般人で、弟さんは石川県の能登町で和牛の牧場を営んでいるそうです。

まとめ

パティシエとして日本だけではなく海外でも高く評価されている辻口博啓さんですが、家庭環境は凄く恵まれていたわけではありませんでした。

これからも辻口博啓さんの活躍を応援していきたいと思います。

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