音楽シーンで唯一無二の存在感を放つ奥田民生さん。
ユニコーンとしてのブレイクからソロ活動、さらにはプロデューサーとしても幅広いジャンルで活躍を続けており、長年にわたって多くのファンに愛されています。
そんな奥田さんの高校時代や学歴、音楽に目覚めたきっかけは一体どのようなものだったのでしょうか?
また、ユニコーン時代からの代表曲や所属事務所、現在の収入に関しても気になるところですよね。
今回は、奥田民生さんの出身校や若い頃のエピソード、音楽キャリアを支える事務所や年収についても調べました。
読み終わる頃には、奥田民生さんの意外な一面や、今のキャリアに至る背景を知ることができ、より深く彼の音楽の魅力に浸れることでしょう。
奥田民生の学歴
奥田民生さんの音楽的な才能はどのような学歴や学生生活から育まれたのでしょうか。
奥田さんは地元広島で学業を終えた後に音楽の道へ進んでおり、バンドやプロデューサーとして成功を収めた経緯も含めて、学生時代について探ってみました。
奥田民生の出身小学校
奥田民生さんは広島市にある尾長小学校を卒業しました。
この時期、幼少期から喘息を抱えていたため、運動があまり得意ではなく、インドア派だったといいます。
そのため、家庭では一人で音楽を聴く時間が多かったようです。
奥田民生さんが初めてギターを手にしたのは、小学校4年生の頃でした。
当時、体が弱くて外で遊ぶよりも自宅で過ごすことが多かったに奥田民生さんにとって、音楽は大きな慰めとなっていたのです。
特にお母さんが愛していたエルヴィス・プレスリーや洋楽のレコードを一緒に聴く時間が奥田さんの楽しみであり、やがて音楽を「自分で演奏してみたい」と感じるようになったそうです。
10歳の時に父親がギターをプレゼントしてくれたのが、奥田さんのギター人生の始まりです。
最初はビートルズの曲に夢中になり、メロディーを聴きながらギターをかき鳴らす日々を過ごしました。
尾長小学校時代の奥田さんは、ギターを手にすることで「自分の音を出す楽しさ」を見出し、音楽の道を歩むきっかけをつかんでいきました。
奥田民生の出身中学
奥田民生さんの出身中学は広島市立二葉中学校です。
この中学校で奥田さんは、友人と一緒にバンド活動を始め、音楽への熱い思いが芽生えていきました。
当時はビートルズやKISSといった海外のロックバンドに影響を受け、自宅近くの公民館やスタジオで練習を重ねたそうです。
後にバンド「ユニコーン」のボーカルとしてデビューを果たす奥田さんですが、この中学時代が音楽キャリアの原点となったことが伺えます。
奥田民生の出身高校
奥田民生さんの出身高校は、広島皆実高校です。
この高校は広島市南区出汐二丁目にあり、1901年に創立された歴史ある学校です。
普通科・衛生看護科・体育科が設置されており、スポーツ強豪校としても知られています。
特にサッカー部が強く、全国大会に何度も出場している実績があります。
奥田民生さんは高校時代から音楽に夢中で、ライブハウスにも通うなど、アーティストとしてのキャリアを模索していました。
多くの大学生バンドを目にしたことで、進学よりも音楽活動を優先することを決意し、この後専門学校を経てバンド「ユニコーン」のボーカルとしてデビューを果たしました。
現在も、広島皆実高校は多くの個性豊かな卒業生を輩出しており、奥田さんもその一人として同校の誇りとなっています。
奥田民生の出身大学
奥田民生さんは高校卒業後、地元広島の「広島電子専門学校」(現在の広島会計学院電子専門学校)に進学しています。
この学校は情報処理やコンピューターを中心としたカリキュラムを提供しており、エンジニアなどを多く輩出してきた実績があります。
奥田民生さんは、専門学校で勉強をしつつも、音楽活動への情熱が強く、次第に音楽活動に比重を置くようになり、最終的には中退して音楽の道に進む決断をしました。
高校時代からバンド活動に没頭し、ライブハウス通いも経験していた奥田民生さんは、「大学生バンドのノルマ付きチケット販売」を見て「面倒そう」と思い、大学進学には魅力を感じなかったそうです。
高校卒業後もバンド活動を続けるために選んだのが、この専門学校での学びと音楽活動の両立という道だったのです。
広島電子専門学校での経験も、音楽活動へとつながる重要な一歩だったと言えるでしょう。
やがて「ユニコーン」のメンバーとして加入することになり、メジャーデビューという転機を迎え、奥田民生さんの音楽キャリアが本格的に始まりました。
若い頃はユニコーンで活躍
奥田民生さんがロックバンド「ユニコーン」のメンバーとして活動を始めたのは1987年のことです。
当時、奥田さんは広島を拠点に音楽活動を行っていましたが、バンドのメジャーデビューを機に上京しました。
ユニコーンは「大迷惑」「働く男」「すばらしい日々」など数々のヒット曲を生み出し、一躍トップバンドとして注目を集めます。
斬新なサウンドとユーモアが特徴で、80年代後半から90年代のバンドブームを牽引する存在でした。
奥田民生さんはボーカルを務めながらギターも担当し、独特の低音ボイスとキャッチーなメロディがファンの心を掴んでいました。
特に、奥田さんの軽妙な歌詞と自然体のキャラクターがバンドの個性を強め、若者を中心に大人気となりました。
当時から「君が君が精神」と呼ばれる控えめな姿勢で「メンバーの個性がバンドの魅力になる」という考え方を大切にしていたそうです。
さらに、若い頃の奥田さんは可愛らしい顔立ちとやんちゃな髪型が話題となり、ビジュアルでも人気を博していました。
当時は今のような渋い印象ではなく、「かわいい奥田民生」とも呼ばれ、ジャニーズタレントのように女性ファンを魅了していたそうです。
奥田民生の若い頃の髪型が独特
いまの息子の髪型、若い頃の奥田民生みたいでかっこいいと母は思うけど、Vaundyかポインティみたいと娘からは不評 pic.twitter.com/87gOBXkHzR
— 藤沢 (@fujisawasansan) March 18, 2023
奥田民生さんの若い頃は、ファッションや髪型が特に注目されました。
長めの髪を無造作に跳ねさせたスタイルが多く、ロックな雰囲気と自然体のイメージが相まって、若い女性ファンからも高い人気を誇りました。
また、ライブでも独自のファッションを取り入れ、ユニークな髪型とともに「個性的でかっこいい」と評されていたそうです。
奥田民生はソニーの役員に就任している
奥田民生さんは、長年所属しているソニー・ミュージックアーティスツ(SMA)で「名誉顧問」という特別な役職に就いています。
これはソニーのエンターテインメント部門において、奥田民生さんの経験と知識が業界の発展に貢献できると期待され、就任が決定されたものです。
SMAの名誉顧問として奥田民生さんが行うのは、若手アーティストやスタッフへの助言や指導です。
たとえば、音楽の制作現場のノウハウや、長く音楽シーンの第一線に立ち続けるための心得を伝えるなど、これまでのキャリアを活かした役割が期待されています。
ソニーの中で名誉顧問として活動することにより、新しい世代のアーティストが奥田さんの知識を活かして成長していく機会が増えていくでしょう。
奥田民生の代表曲
奥田民生さんはソロアーティストとしても多くの代表曲を生み出してきました。
中でも「愛のために」「イージュー★ライダー」「さすらい」などはファンの間で根強い人気を誇り、今でも多くの人に愛されています。
特に「さすらい」はフジテレビ系ドラマの主題歌としても話題になり、その軽快なリズムと歌詞が広く支持されました。
奥田民生のプロフィールや経歴
本名:奥田 民生(おくだ たみお)
生年月日:1965年5月12日
出身地:広島県広島市
身長:171cm
職業:ミュージシャン、シンガーソングライター、音楽プロデューサー
デビュー:1987年(ユニコーンとして)、1994年(ソロデビュー)
趣味:釣り、ギター収集
家族:1995年にスタイリストの女性と結婚し、2児の父
1987年、ロックバンド「ユニコーン」のボーカル・ギターとしてメジャーデビューし、翌年に上京。
1989年にはシングル「大迷惑」で一躍注目を集め、その後も「働く男」「すばらしい日々」など、数々の名曲を生み出しました。
1993年にユニコーンが解散するも、翌年にソロ活動を開始。ソロデビュー曲「愛のために」がミリオンセラーを記録し、「イージュー★ライダー」「さすらい」などヒット曲を連発しました。
奥田さんはプロデューサーとしても成功し、特にPUFFYをデビューさせた功績は大きく、「アジアの純真」などのプロデュースで一躍話題に。
井上陽水さんとのコラボレーションやKinKi Kids、柴咲コウさんなど多くのアーティストへ楽曲提供も行っています。
また、2015年には自身のレーベル「ラーメンカレーミュージックレコード」を立ち上げ、新しい形で音楽活動を展開。
近年はDIYスタイルでの宅録音源配信や、自身のバンド「サンフジンズ」での活動も行っており、今なお音楽シーンの第一線で活躍中です。
奥田民生の所属事務所
奥田民生さんは、独立レーベル「RAMEN CURRY MUSIC RECORDS(略称:RCMR)」を立ち上げて音楽活動を行っています。
このレーベルは、2015年に奥田さんが設立したもので、「音楽をもっと自由に」という信念のもとに設けられました。
RCMRのもとで、奥田民生さんは制作からライブまで独自に取り組み、自分らしさを発揮できる環境を大切にしています。
また、RCMRはYouTubeなどでの発信活動も積極的に行っており、リスナーとの距離が近いのも特徴です。
一方で、奥田さんはSony Music Artists(ソニーミュージックアーティスツ)にも所属しており、マネジメントサポートを受けています。
この事務所は音楽業界でも多くの著名なアーティストを抱え、奥田さんのプロモーションやメディア展開をサポートしている存在です。
ユニコーン時代から続くSonyとの関係を活かし、幅広い活動を支援してもらうことで、国内外に音楽を届ける幅が広がっています。
独自のレーベル活動と大手事務所のサポートを両立させていることで、奥田さんは常に新しい音楽の可能性を追求しながら、自分のスタイルを大切にし続けています。
奥田民生の年収や印税
奥田民生さんは音楽活動やプロデュース業による収入が多いとされ、推定年収は数千万円に達するとの見方があります。
音楽業界での長いキャリアをもっており、ソロ活動に加えてロックバンド「ユニコーン」での楽曲や、プロデュースしたPUFFYなどのヒット曲から安定的な印税収入があると考えられています。
また、自身のインディーズレーベル「RAMEN CURRY MUSIC RECORDS」を運営し、作品やグッズの収益も直接得られるため、収入基盤が広がっています。
全盛期のPUFFYプロデュース時にはミリオンセールスを記録していましたが、当時の長者番付にはランクインしておらず、これは税務対策を慎重に行っていたためと考えられます。
加えて、YouTubeやライブ配信なども積極的に行い、さまざまな収入源を確保しているのが特徴です。
音楽活動だけでなく、奥田さんは還暦を迎えるにあたり執筆活動にも力を入れています。
最近では、仕事観や健康、生活の楽しみ方などについて著書を出版し、幅広い世代に生き方のヒントを提供しています。
また、CM出演やテレビのテーマ曲なども担当しており、多岐にわたる収入源があります。
まとめ
奥田民生さんは広島で音楽に触れながら成長し、ユニコーンでの成功を経て、ソロアーティストやプロデューサーとしても大きな功績を残しています。
若い頃のイケメンで独特なファッションや髪型も話題になり、現在でも多くのファンに愛されています。
音楽シーンに与えた影響は計り知れず、今後も新たな音楽や活動が期待される存在です。