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定岡正二の若い頃はアイドル級!現在の職業や年収は?実家や兄弟について

sadaokashoji_career 野球

元読売ジャイアンツの選手・定岡正二さんは、若い頃アイドル選手と言われていました。

そんな定岡正二さんは現在どんな活動を行っているのでしょうか。

今回は、定岡正二さんの経歴や出身学校、家族、現在について調べてみました。

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定岡正二の学歴

定岡正二さんが通っていた学校について調べてみました。

定岡正二の出身小学校

定岡正二さんは、鹿児島市立吉野小学校に入学しました。

その後、南さつま市立大浦小学校に転校しています。

小学校時代のエピソードは明かされていません。

定岡正二の出身中学

小学校卒業後は、鹿児島市立吉野中学校に進学しました。

中学時代のエピソードも明かされていません。

定岡正二の出身高校

中学校卒業後は、鹿児島実業高等学校に進学しました。

偏差値は、42~72です。

2年生と3年生の夏にそれぞれ全国高等学校野球選手権大会に出場、3年生の時にはエースとして鹿児島県勢初のベスト4進出を果たしました。

定岡正二の出身大学

高校卒業後は、進学していません。

プロ野球選手として活動を始めました。

定岡正二の若い頃はアイドル級だった!

定岡正二さんは、高校時代から絶大な人気を誇っていました。

地元のバス会社が当時定岡正二さんの暮らしていた実家を観光バスで回るルートを設けたこともあったそうで、プロ野球に入ってからもその人気は衰えず、平日に先発が予告されていたイースタン・リーグのデーゲームに1万5,000人、当時の練習場だった多摩川グラウンドでの練習に2万人ものファンが詰めかけるほどでした。

ただ定岡正二さん自身はあまりうれしくは感じず、練習が終わってバスに乗ろうとするとファンからもみくちゃにされて先に進めず結果的に先輩たちを待たせることになったり、先輩に「アイツがいると騒がれるし店に迷惑がかかるから」と食事にも誘ってもらえなかったそうです。

また女性ファンたちと個人的に深い関係になったら終わりだとあえて距離を置いていたため、週刊誌などに熱愛が報じられたこともありませんでした。

定岡正二の現役時代の成績や年俸

1975年にプロ入りした定岡正二さんは、1980年にプロ入り初勝利を含む9勝、1981年にはプロ入り初の2桁勝利(11勝)を挙げ、同年の日本シリーズ制覇にまで貢献しました。

1982年には自己最多の15勝を挙げるも1983年は7勝7敗に終わり、1984年に入ってもなかなか復調せず、この年のシーズンでは自己ワーストの10敗を記録しました。

引退年の1985年には一軍定着後初めてリリーフへ専念、自己最多の47試合登板で、4勝3敗2セーブ、防御率3.87という成績を残しています。

年棒は1980年に330万、1981年に720万、1982年に1260万、1983年2520万、1984ねんに2150まん、1985ねんに1920万円でした。

引退後は「とんねるずの生ダラ」でも人気に

現役引退後は、芸能事務所に所属し『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』で話題を集めました。

ゲストとしてへ出演した際に「おちゃのこさいさい」を「へなちょこさいさい」と言い間違えたことから「へなちょこサダ」という異名を取り、準レギュラーへ起用されました。

1997年にはこの番組の企画で、石橋貴明さん、デビット伊東さんと共に“ANDY’S”という音楽ユニットを結成、「FREEDOM」というシングルCDをリリースしています。

定岡正二の現在の職業や年収

定岡正二さんの現在の肩書は、野球解説者・タレントです。

引退直後よりかはテレビに出る機会は減ったものの、バラエティー番組などにも出演しています。

2023年には映画『僕の名前はルシアン』にも出演しました。

現在の年収については公表されていませんが、数百万円以上になると思われます。

定岡正二のプロフィールや経歴

名前:定岡正二
生年月日:1956年11月29日
出身地:鹿児島県
血液型:O型
身長:184cm

1974年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから1位指名を受け入団した定岡正二さんは、1981年4月11日の阪神タイガース戦で準完全試合となる完封を達成しました。

その後も順調にキャリアを積んだものの、1985年に近鉄バファローズへのトレードを通告され、「近鉄への移籍」か「巨人での引退」を迫られた末に引退を選びました。

その理由は「プロ野球に入ったときから巨人しかないという考えだったから」で、「頭ではトレードに従わねばならないとわかっていても、感情的に他球団のユニホームを着ることを納得できないんです」と発言していました。

引退後は1986年2月にアイク生原さんの紹介によってドジャースのスプリングトレーニング(春季キャンプ)に招待選手として参加、帰国後の1986年4月から『JNNスポーツチャンネル』のスポーツキャスターに転身しています。

1990年からは地図制作・販売企業ゼンリンの全面バックアップを受け、国内最大のオートバイレースである鈴鹿8時間耐久レース(鈴鹿8耐)に参戦することを目標にレーシングチーム「チームサダオカwithゼンリン」を立ち上げ、チーム監督として鈴鹿8耐に1993年まで参戦しました。

2005年からは故郷の鹿児島県から国鉄鹿児島鉄道管理局野球部の廃部以降社会人野球へ参加するチームが途絶えていたことを背景に、鹿児島県内で社会人野球クラブチームの創設に尽力、県内最初のクラブチームとして同年に結成された鹿児島ドリームウェーブの監督を経て、2006年に薩摩を自ら創設するとともに監督を兼務しています。

定岡正二の所属事務所

定岡正二さんは、株式会社エストゥーに所属しています。

こちらの事務所のほかの在籍者は情報がなくわかりませんでした。

定岡正二は三人兄弟の次男

定岡正二さんは、三兄弟の次男です。

お兄さんは定岡智秋さんと言い南海ホークス(福岡ソフトバンクホークス)に、弟さんの定岡徹久さんは広島東洋カープや日本ハムファイターズに所属していました。

定岡正二の実家

定岡正二さんは、鹿児島県鹿児島市出身です。

実家の詳しい場所は公開されていません。

定岡正二の生い立ち

1956年11月29日に誕生した定岡正二さんは、子供の頃から体が大きかったそうです。

お兄さんの影響で野球を始めるも、幼い頃は読売ジャイアンツV9だった頃ははいつも読売ジャイアンツが勝っていたため、つまらないものでした。

しかし強いものに戦っていくことが好きな定岡正二さんは、その後もいつも戦っていたと明かしています。

ドラフト会議では「阪神タイガースがいいな」と漠然と考えていたものの、結局読売ジャイアンツからの指名を受けて入団しました。

定岡正二の父親

定岡正二さんのお父さんは、定岡清治さんと言います。

お父さんは一般人で、NTT(電電公社)に勤務していました。

定岡正二の母親

定岡正二さんのお母さんも一般人です。

名前や顔写真などは公開されていません。

まとめ

兄弟でプロ野球選手になった定岡正二さんですが、プロの世界はいいことばかりではありませんでした。

現役引退後も野球に関わっているので、今後も日本の野球界を盛り上げていけるよう、頑張ってほしいですね。

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