日本を代表する名司会者として長年活躍し、「朝ズバッ!」などの人気番組でおなじみだったみのもんたさん。
その鋭いコメント力と独特の語り口で、多くの視聴者を魅了してきました。
そんなみのもんたさんの実家はどこにあるのか、ご存じでしょうか?
実はみのもんたさんの実家は鎌倉にあり、水道会社を経営していたといいます。
また父親・母親・兄弟など家族構成についても気になるところです。
そこで本記事ではみのもんたさんの実家の場所や家業、さらにはご家族について詳しく調査しました。
みのもんたの実家は鎌倉で水道会社ニッコク経営
新日国工業と似た社名だけどぜんぜん関係ない日国工業(現:ニッコク)って水道メーター製造の企業、みのもんたのおじいさんらが創業した会社で当初は鉄道関連の事業もやってたんだそうだ。もっぱら修理や改造が多かったようだけどオリジナル機関車も少数作ってたらしい。(画像は同社公式サイトから) pic.twitter.com/30diKimRHu
— だあびい (@darbyz80) November 1, 2021
みのもんたさんの実家は、水道メーター製造会社「ニッコク」です。
「ニッコク」は、みのもんさんの父親である御法川正男さんが経営していた水道メーター製造販売会社「日国工業」を前身としています。
日国工業は、御法川易蔵さん、恒蔵さん、倉蔵さんの3兄弟によって1940年(昭和15年)に設立され、当初は王子に工場を構えていました。
戦中戦後直後には、機械関連の多岐にわたる業務を手掛け、やがて名古屋に移り水道関係の機器製造に専念するようになりました。
1999年(平成11年)10月、みのさんの芸能事務所「オフィスモンタ」が日国工業を吸収し、現在の「ニッコク」となりました。
みのもんたの生い立ち
みのもんたの若い頃 pic.twitter.com/XbjGvnJCIK
— ゴルドーブ (@K3E07) September 24, 2021
みのもんたさん(本名:御法川法男)は、1944年8月22日に東京都世田谷区で生まれました。
幼少期、伯父が森繁久彌さんと共に芝居をしていた縁で、自宅の離れに森繁さんが下宿していたことがありました。
その影響で、みのもんたさんは小学校入学前から映画や芝居に興味を持つようになりました。
また『柔道一代』などの映画撮影が御法川家で行われることもあり、芸能の世界が身近な環境で育ちました。
大学時代には放送研究会に所属し、ラジオドラマの制作に取り組みました。
4年先輩で日本テレビに入社していた徳光和夫さんから「アナウンサーはいいよ」「これからはテレビの時代だよ」と勧められ、スタジオ見学に同行するなど放送業界への関心を深めました。
1967年4月に文化放送に入社。
当初の第一志望はTBSでしたが、採用試験で不合格となり、文化放送でのキャリアをスタートさせました。
当時深夜放送ブームが到来し、『オールナイトニッポン』や『パックインミュージック』が人気を博していました。
みのもんたさんも遅れて始まった『セイ!ヤング』の初代パーソナリティに抜擢され、人気を集めました。
さらに『オールスター水泳大会』の司会などで知名度を上げましたが、その後人事異動で営業部へ配転され、1979年9月に退社しました。
文化放送退社後はフリーアナウンサーとして活躍し、多くのテレビ番組で司会を務めました。
その明るいキャラクターと巧みな話術で、視聴者から愛される存在となりました。
みのもんたの父親
みのもんたさんの父親は、御法川正男(みのりかわ まさお)さんと言います。
1912年または1913年に宮城県栗原郡鶯沢町(現・栗原市)で生まれました。
実業家として水道メーター製造販売会社「日国工業」(現:ニッコク)の代表取締役会長を務め、同社の発展に尽力しました。
お父さんは息子であるみのもんたさんに日国工業の社長職を継いでもらうことを希望していましたが、みのもんたさんは文化放送にアナウンサーとして入社し、放送業界での道を歩み始めました。
その後みのもんたさんは文化放送を退社し、父親の会社である日国工業に入社しました。
2005年1月29日午前8時32分、御法川正男さんは92歳で逝去されました。
その生涯を通じて、家族や企業の発展に多大な貢献を果たしました。
みのもんたの母親
みのもんたさんの母親については、一般の方であり、名前や詳細な情報は公には公開されていません。
そのため具体的な経歴や人物像についての確かな記録はほとんど存在していません。
しかしみのもんたさんが幼少期からエネルギッシュな性格であったことや、放送業界で活躍する過程において豊かな表現力や独自の話術を培ったことを考えると、母親の存在が彼の人格形成に少なからず影響を与えた可能性は高いでしょう。
またみのもんたさんの父親である御法川正男さんは水道メーター製造販売会社「日国工業(現・ニッコク)」を経営していた実業家です。
父親が多忙な日々を送っていたと考えられることから、家庭内では母親がみのもんたさんの教育やしつけに深く関わっていた可能性もあります。
みのもんたさんは子どものころから映画や芝居に興味を持ち、小学生の頃にはすでにメディアの世界に強い関心を抱いていたといいます。
このような文化的な環境の中で成長した背景には、母親の影響も少なからずあったのではないでしょうか。
公に語られることが少ないものの、みのもんたさんを育てた母親の存在はみのもんたさんの人生やキャリアにおいて重要な役割を果たしていたと考えられます。
みのもんたの兄弟や姉妹
みのもんたさんは、5人家族の中で育ちました。
家族構成は、父・正男さん、母親、ご本人、そして兄と妹がいます。
兄の正昭さんは1941年に生まれましたが、1944年7月21日に3歳で亡くなりました。
その通夜の席で父・正男さんに召集令状が届き、母親はみのもんたさんを妊娠中で身重でした。
夫の出征と長男の死という二重の悲しみに直面し、母親は途方に暮れ、国を呪ったといいます。
幸いにも父・正男さんは終戦後無事に戦地から戻りましたが、母親の戦争に対する怒りは生涯消えることはありませんでした。
またみのもんたさんには妹がいますが、一般の方であり、名前や詳細な情報は公開されていません。
そのため具体的な経歴や人物像については明らかにされていません。
このような家族の歴史や戦争の影響を受けながら、みのもんたさんは成長し、その後の活躍へと繋がっていきました。
まとめ
みのもんたさんの実家は、水道メーターの製造販売を行う株式会社ニッコクです。
お父さんは御法川正男さんと言い、ニッコクの代表取締役会長を務めました。
お母さんの情報はありません。
お兄さんはみのもんたさんが生まれる前月に3歳で亡くなっています。
妹さんもいますが、お母さんと同じく情報はありませんでした。