俳優の風間トオルさんは、5歳のときにご両親と離れ、おじいさんとおばあさんに育てられました。
お母さんはなぜ家を出たのか、お父さんはその後どうなったのか。
気になっている方も多いのではないでしょうか。
今回は、風間トオルさんのお母さん・お父さんとの関係や、育ての親であるおじいさん・おばあさんとの日々について調べてみました。
亡くなったお兄さんの存在についても触れています。
風間トオルの母親は5歳のときに家を出た
風間トオルさんの家族について語られるとき、必ず出てくるのが5歳のときの出来事です。
1962年8月19日に生まれた風間トオルさんは、神奈川県川崎市で育ちました。
その川崎での暮らしが大きく変わったのが、5歳のときのお母さんとの別れでした。
風間トオルさんは後年のインタビューで、このときの記憶をかなり具体的に語っています。
母親が家を出るまでの5人暮らし
風間トオルさんは、幼い頃はお父さん方の祖父母の家で暮らしていました。
同居していたのはおじいさんとおばあさん、そしてお父さんとお母さん、風間トオルさんの5人です。
本人は当時について「当時は父方の祖父母の家で、祖父母、両親、俺の5人で暮らしていたんですが、5歳のときにお袋が出て行ったんです」と振り返っています。
つまり、風間トオルさんは生まれたときからおじいさんとおばあさんと同じ屋根の下にいたことになります。
この5人暮らしが崩れたのが、お母さんが家を出た日でした。
そのままご両親は離婚することになります。
離婚が決まったとき、風間トオルさんはお母さんからある選択を迫られました。
「そして、両親は離婚することになったんですけど、お袋から『母親と父親、どっちについていくか選びなさい』と言われて」と語っています。
5歳の子どもにとっては、あまりに重い問いかけでした。

5歳でその質問は…

本人が詳しく語っています
風間トオルさんが選んだのは、お父さん側でした。
理由はシンプルで、すでに一緒に暮らしていた祖父母がそこにいたからです。
「親父の方のおじいちゃんおばあちゃんと一緒に住んでいたので、そちらを選びました」と本人は説明しています。
住み慣れた家と、日常を共にしてきた祖父母を選んだということになります。
「新しい男の人がいる」と感じた子ども時代
お母さんが家を出た背景については、風間トオルさん自身が子どもの頃に感じ取っていたことを明かしています。
お母さんに連れられて、見知らぬ男性と会った経験があったのだそうです。
そのときのことを「子どもながらに『お袋には新しい男の人がいる』というのがわかりました」と語っています。
この発言から、ネット上では離婚の理由をお母さんの恋愛に結びつける見方が多く語られています。
ただし、風間トオルさん本人が離婚の原因そのものを説明した発言は見当たりません。
あくまで、幼い風間トオルさんが感じ取った空気として語られている内容です。
離婚後、母親と会っていないと語られていること
お母さんについては、そのほとんどが明らかにされていません。
名前や職業、離婚後にどこで暮らしていたのかといった情報は出ていない状態です。
風間トオルさん自身も、お母さんのその後について具体的に語ることはほとんどありませんでした。
インタビューや番組でも、離婚後に再会したというエピソードは語られていません。
そのため、ファンの間では「離婚以降は連絡を取っていないのではないか」という見方が広がっています。
一方で風間トオルさんは、当時の自分の心境について意外な言葉を残しています。
「おじいちゃんとおばあちゃんがいたので、生活はいつも通りでしたし、幼かったせいか、『両親が恋しい』といったこともあまりなかったと思います」というものです。
寂しさよりも、2人との日常が変わらず続いていたことの方が大きかったのでしょう。
この感覚が、その後の風間トオルさんの生き方にもつながっていきます。
風間トオルの父親はなぜ帰ってこなかったのか
お母さんについていくか、お父さんについていくか。
5歳の風間トオルさんが選んだのは、お父さんとおじいさん・おばあさんのいる家でした。
ところが、その選択の直後にもう一つの別れが待っていました。
風間トオルさんとお父さんの関係は、ここから長い時間をかけて形を変えていきます。
母親が出た約1週間後の出来事
お母さんが家を出てから、それほど日が経たないうちにお父さんも家からいなくなりました。
風間トオルさんは当時のことを「そうしたら母親が出て行って1週間くらいで、今度は親父がいなくなって」と語っています。
そして続けて「結局帰ってきませんでしたね」とも話しています。
わずか1週間ほどの間に、風間トオルさんは両方の親と離れることになりました。

お父さんまでいなくなるなんて

経緯には続きがあります
この出来事は、しばしば「両親に捨てられた」という強い言葉で紹介されることがあります。
ただ本人の説明をたどると、離婚のあとにお母さんが家を出て、その約1週間後にお父さんも家を離れた、という順序になります。
お父さんが家を出た理由や、その後どこで暮らしていたのかについては明らかにされていません。
結果として、風間トオルさんはおじいさんとおばあさんとの3人暮らしになりました。
風間トオルさんのお父さんは一般の方で、名前や顔写真、職業なども公表されていません。
中学時代に訪ねたときに言われた言葉
離れて暮らすようになった後も、風間トオルさんとお父さんが完全に切れてしまったわけではありませんでした。
中学に進学する頃、風間トオルさんはお父さんの家を訪ねたことがあったそうです。
幼い頃に別れたお父さんに、自分から会いに行ったことになります。
しかしそこで返ってきたのは「もうそろそろ遅いから帰れ」という言葉でした。
一緒に暮らしたいという願いが叶うことはなく、そのまま同居に至ることはありませんでした。
10代の風間トオルさんにとって、この日の記憶は決して軽いものではなかったはずです。
舞台への差し入れと、生活費の相談
風間トオルさんが芸能界に入り、活躍するようになると、お父さんとの距離に少しだけ変化が生まれます。
お父さんは風間トオルさんが出演している舞台を訪ねてきて、差し入れを置いていくことがあったそうです。
ただし楽屋に顔を出すことはなく、直接会って話すという形ではありませんでした。
離れた場所から息子の活躍を見ていた、ということになります。
やがてお父さんからは、生活費についての連絡が入るようになりました。
風間トオルさんは2016年の取材で「困ると電話がかかってくるんです。生活のために資金が欲しいとか、そういう時は」と明かしています。
さらに「『何とかしてくれるんじゃないか』と思っていると思いますよ」とも語っていました。
幼い自分を置いていった相手からの連絡です。
それでも風間トオルさんは、突き放すという選択をしませんでした。
「オレを生んでくれた人だから、最後まで面倒はみたいと思っています」という言葉を残しています。
この発言は2016年時点のものです。
その後もお父さんとの関係がどうなったのか、お父さんが現在どうしているのかについては語られていません。
ただ、この一言に風間トオルさんという人の芯が表れているように感じられます。
風間トオルを育てた祖父母との暮らし
両親と離れた5歳の風間トオルさんを支えたのは、おじいさんとおばあさんでした。
生まれたときから同じ家にいた2人が、そのまま風間トオルさんの保護者になったのです。
この祖父母との日々こそが、風間トオルさんの人格をつくった時間だったといえます。
風間トオルさん自身も、祖父母について語るときの言葉は特別です。
「祖父母は親代わりではなく両親そのもの」
風間トオルさんは、2人との関係についてこう語っています。
「祖父母は親代わりではなく『両親』そのものです」という言葉です。
代わりではなく、そのもの。
この表現に、2人への思いのすべてが込められているように感じられます。
続けて風間トオルさんは「何が正しいか正しくないかなど2人から教わりました」とも話しています。
さらに「今も何かを選択するときは、祖父母の思考が入っているし、僕の体の半分は2人からできていると思っています」という言葉も残しました。

価値観の土台はここにあります

体の半分って素敵…
両親と離れたことを不幸として語らない風間トオルさんの姿勢は、この祖父母との関係から生まれたものでしょう。
実際、両親が家を出た後も「生活はいつも通りでした」と本人は振り返っています。
日常が続いていたのは、おじいさんとおばあさんがそこにいたからにほかなりません。
年金頼りの家計と住まい
ただし、その暮らしは決して楽なものではありませんでした。
2人はすでに年金で生活する年齢に入っており、家計を支える収入は年金だけだったのです。
そこに成長期の子どもが加わることになります。
食事を十分にとることが難しい日も少なくありませんでした。
住まいについても、風間トオルさんは番組で具体的に語っています。
当初暮らしていたのは長屋で、トイレは隣の家との共用だったそうです。
その後は六畳一間のアパートへ移りました。
3人で六畳一間ですから、生活の余白はほとんどなかったことになります。
このアパートにはお風呂がなく、風間トオルさんは洗濯機に入って体を洗っていたという話もよく知られています。
食べるものがないときには、近くの多摩川の河川敷で草を食べることもありました。
こうした暮らしぶりは、後に『ビンボー魂 おばあちゃんが遺してくれた生き抜く力』という著書にまとめられています。
タイトルにおばあさんのことが入っているところに、風間トオルさんの思いが表れています。
この本について風間トオルさんは「お金はあったほうがいいし、親はいたほうがいいけれど、無いなら無いなりに生きていこうよ、の記でもあります」とコメントしていました。
貧しさを嘆く物語ではなく、そこで身につけた力を語る本だということです。
風間トオルさんは後年、この時期を振り返って「今もお金が無くても辛抱できるし、少々のことでは動じないですね」とも話しています。
年金だけの六畳一間で身につけたものが、その後の人生を支える土台になりました。
なお、この時期の具体的な暮らしぶりについては、風間トオルさんがテレビや著書で数多くのエピソードを語っています。
食事や入浴、防寒の工夫まで、その内容は驚かされるものばかりです。
風間トオルの祖父の認知症と、小学生からの介護
おじいさん・おばあさんとの3人暮らしには、もう一つ大きな出来事が加わります。
おじいさんの認知症でした。
風間トオルさんはまだ小学生で、自分自身が守られる側の年齢です。
それでも、おじいさんを支える役割を自然に引き受けていくことになりました。
小学2年生ごろに始まった変化
おじいさんはもともと糖尿病を患っていました。
そこに認知症の症状が重なり始めます。
風間トオルさんは、その時期について「小学校2年生くらいだったと思います」と振り返っています。
おじいさんの年齢についても「おじいちゃんは80代で亡くなっているので、70代の頃に認知症が始まったんじゃないかな」と語っていました。
小学2年生といえば、7歳から8歳です。
家庭の中で頼れる大人が祖母だけになっていく状況を、その年齢で経験したことになります。

小学2年生でそれは大変…

本人は淡々と語ります
現在であればヤングケアラーという言葉で語られる状況に近いといえます。
ただ、風間トオルさんがこの時期を悲劇として語ることはありません。
家にお金がなく、両親もいない中で、目の前のことに向き合うのが当たり前だったのでしょう。
学校帰りに祖父を探しに行く日々
認知症が進むと、おじいさんが家からいなくなってしまうことがありました。
風間トオルさんの日課には、おじいさんを探しに行く時間が組み込まれていきます。
本人は当時の行動を「一度家に帰って荷物を置いて、それからおじいちゃんを探しに行きましたね」と説明しています。
学校が終わって帰宅し、ランドセルを置いて、そのまま街へ出ていく。
その繰り返しが日常でした。
同級生が遊んでいる時間に、風間トオルさんはおじいさんを探して歩いていたことになります。
それでも、この経験を風間トオルさんは負担として語りません。
おじいさんとおばあさんは自分にとっての両親そのものだと語る人です。
探しに行くことは、義務ではなく当然のことだったのだと思われます。
こうした日々が、後の風間トオルさんの落ち着いた人柄につながっているという見方も、ファンの間ではよく語られています。
おじいさんはその後、80代で亡くなりました。
風間トオルさんが芸能界に入る前の出来事です。
2人から受け取ったものについて、風間トオルさんは「僕の体の半分は2人からできている」という言葉で表現しています。
介護の記憶も含めて、その半分を形づくった時間だったのでしょう。
なお風間トオルさんは、川崎市が進める健康寿命に関する取り組みで応援サポーターを務めています。
高齢者の暮らしに関わるこの活動を長く続けている背景には、おじいさん・おばあさんと過ごした日々があるのかもしれません。
風間トオルに兄弟はいる?亡くなった兄について
風間トオルさんについて調べていると、「一人っ子」という説明を見かけることがあります。
おじいさん・おばあさんと3人で暮らしていたことを考えると、そのイメージは自然かもしれません。
ところが、風間トオルさん本人はテレビ番組で兄について語っています。
ここは多くの記事で触れられていない部分です。
本人が語った兄の存在
風間トオルさんには、自分より前に生まれたお兄さんがいたことが番組内で明かされています。
しかしそのお兄さんは未熟児で、亡くなってしまったのだそうです。
風間トオルさんが生まれる前の出来事ということになります。
そのため風間トオルさんは、兄と一緒に育った記憶を持っていません。

お兄さんがいたの?

本人が番組で話しています
つまり「一人っ子として育った」という表現は正確ですが、「兄弟はいなかった」と言い切ってしまうと本人の説明とはずれてしまいます。
お兄さんの名前や生まれた年、亡くなった時期といった詳しい情報は公表されていません。
風間トオルさん自身も、この話を長く語ることはありませんでした。
ただ、5人暮らしだった家族に、もう1人いるはずだった存在があったことになります。
風間トオルさんの生い立ちを追うと、この事実は静かに重さを持って響いてきます。
異母兄弟・異父兄弟の話をどう見るか
ネット上では、ご両親が離婚した後に再婚しているのであれば、異母兄弟や異父兄弟がいるのではないかという声も見られます。
ただ、この点については判断できる材料がありません。
お父さんもお母さんも一般の方で、離婚後の生活そのものが公表されていないからです。
再婚したという報道も、風間トオルさん本人の発言も見当たらない状況です。
そのため現時点では、あくまで検索する人の間で語られている推測の一つと捉えるのが自然でしょう。
風間トオルさん自身は、家族について語るときの中心をつねに祖父母に置いてきました。
血のつながりの範囲を広げるよりも、実際に育ててくれた2人との時間を大切にしている人です。
「祖父母は親代わりではなく両親そのもの」という言葉が、その姿勢をよく表しています。
兄弟というテーマで見たときも、風間トオルさんの家族の核にあるのは祖父と祖母なのだと感じられます。
まとめ
風間トオルさんの家族について、本人が語ってきた内容をたどってきました。
5歳のときにご両親が離婚し、お母さんが家を出た約1週間後にお父さんもいなくなりました。
その後の風間トオルさんを育てたのは、お父さん方のおじいさんとおばあさんです。
年金だけの家計で、長屋から六畳一間のアパートへ移り、食べるものにも困る日々でした。
小学2年生の頃にはおじいさんの認知症が始まり、学校帰りに探しに行く生活が続きます。
生まれる前に亡くなったお兄さんがいたことも、風間トオルさん自身が番組で語っていました。
それでも風間トオルさんは、この時期を不幸な過去として語りません。
「祖父母は親代わりではなく『両親』そのものです」という言葉が、その理由を表しています。

なんだか温かい話だった…

本人の言葉が全部語っています
著書『ビンボー魂 おばあちゃんが遺してくれた生き抜く力』で風間トオルさんが書いたのは、こんな一節でした。
「お金はあったほうがいいし、親はいたほうがいいけれど、無いなら無いなりに生きていこうよ、の記でもあります」
ないことを嘆くのではなく、ないなりに生きる。
その姿勢は、おじいさんとおばあさんから受け取ったものなのでしょう。
風間トオルさんは現在もホリプロ・ブッキング・エージェンシーに所属し、俳優として活動を続けています。
テレビ朝日系『科捜研の女』シリーズへの出演を重ねながら、2026年には主演映画『おかえりの湯』も公開されました。
デビューから40年近くが経った今も、その表情に力みがないのが風間トオルさんらしいところです。

今も第一線で活躍中です

ずっと応援したい!
風間トオルさんが語る貧乏エピソードは、ここで紹介しきれないほどたくさんあります。
野草や虫を口にした話、洗濯機をお風呂代わりにした話、バレンタインのチョコレートを1年かけて食べた話など、どれも驚かされる内容です。を乗り越えてきたからこそ、これからの風間トオルさんの人生はたくさんの幸せが訪れることを願っています。
