元アナウンサーという経歴を持つ残間里江子さんは、どこの学校に通っていたのでしょうか。
何がきっかけでアナウンサーやプロデューサーになったのでしょうか。
今回は、残間里江子さんの経歴や出身学校、年収などについて調べてみました。
残間里江子の学歴
残間里江子さんが通っていた学校について調べてみました。
残間里江子の出身小学校
出身小学校は公表されていません。
出身地である宮城県仙台市内の学校に通っていたようです。
小学生の頃はその日に食べるお米にも困るほど極貧生活を送っており、給食費も数カ月滞納していました。
遠足費など学校にお金を持っていかなければならないときは、どのタイミングで親に話せばいいか、迷っていたそうですよ。
残間里江子の出身中学
出身中学校も公表されていません。
残間里江子さんが1年生の時、家族で静岡県富士市に引っ越しました。
生まれつき虚弱児だったため残間里江子さんは転地療法になると喜んで引っ越したものの、結果的には入退院を繰り返すような生活で、勉強も遅れがちになってしまいました。
残間里江子の出身高校
出身高校も公表されておらず、不明です。
ただ静岡県内の女子校に通っていたと話していました。
残間里江子の出身大学
高校卒業後は、明治大学短期大学に進学しました。
こちらの学校は、2007年に廃止されています。
ずっと貧しい暮らしをしていた残間里江子さんですが、両親が借金をして短大に行かせてくれたのだそうです。
そのため短大在学中も、家賃7500円の木造アパートを女友達と折半で借り、休みの日にはスーパーの値札貼りなどのアルバイトをして学費や生活費を捻出していました。
残間里江子の病気歴がすごかった
残間里江子さんは、幼い頃から病気持ちでした。
生後間もない頃は百日咳や小児喘息、赤痢を、小学3年生の時には小児性関節リウマチ炎や心臓弁膜症などを患い、中学生の時は100日間も入院していました。
成人になってからも胆のう炎、十二指腸潰瘍、胃潰瘍などを経験しています。
そのため医師からは「子供ができにくい」と言われていたものの、39歳の時に妊娠、無事に長男を出産していますが、分娩時に視神経を痛めた影響で、左目はほぼ見えていません。
更年期に入ると無痛性甲状腺炎や、ブシャール結節という手指の第二関節が痛む病気、さらに慢性気管支ぜんそくや狭心症も発症しています。
残間里江子と山口百恵の関係
山口百恵さんのファンだった十代を思い出す。将来の不安はあったけど、自由に生きてたあの頃。
— 修善寺Cotori 坪内ゆみ (@tsubomi_izu) May 2, 2020
今、世界中が『蒼い時』を過ごしている。
希望に輝く未来を思い描いて、もう一度「青春」を生きようと思う。#緊急事態宣言#おうち時間#山口百恵#残間里江子#集英社#キルト展中止#修善寺Cotori pic.twitter.com/xtp1LQRwmS
残間里江子さんは、元歌手の山口百恵さんの自叙伝『蒼い時』を手掛けたプロデューサーとして注目を集めました。
きっかけは1980年、山口百恵さんが三浦友和さんとの婚約・芸能界引退の会見を行った直後、山口百恵さんから「自叙伝を出してほしいとの依頼があるが、どれもこれも実際に書くのはゴーストライター。私は自分で書きたいんです。一緒に手伝っていただけませんか」という手紙が届いたことでした。
そこで残間里江子さんは山口百恵さんの願いを叶えるべく事務所や出版社を駆け回り、山口百恵さん本人が執筆した原稿を本にしたのです。
タイトルについては、残間里江子さんが好きな色を聞いたときに山口百恵さんが「私、夜が明ける直前の蒼い空が好きなんです」と言ったため、『蒼い時』に決めたそうです。
残間里江子のプロフィールや経歴
最新号(6月9日号)の阿木対談ゲストは、プロデューサー・残間里江子さん。山口百恵さん自叙伝『蒼い時』の仕掛人として知られる残間さん。トップアイドル・百恵さんに深い関わりを持った2人の対談が読めるのは、サンデーだけです!#サンデー毎日 #残間里江子 #山口百恵 #阿木対談 pic.twitter.com/veQerxRCVS
— サンデー毎日編集部 (@tsunday3) May 28, 2019
名前:残間里江子
生年月日:1950年3月21日
出身地:宮城県
血液型:非公開
身長:非公開
1970年に短大を卒業した残間里江子さんは、静岡放送にアナウンサーとして入社しました。
東北訛りを直そうという思いからアナウンス学校に通い、何とか標準語が話せるようになったことでアナウンサー試験を受けたのだそうです。
1972年に約2年半勤務した静岡放送を退社、そして1973年6月に雑誌『女性自身』の関係者に会ったことがきっかけで光文社に入社し、女性自身編集部記者として勤務しました。
1980年には企画制作会社「キャンディッド」(現・キャンディッド・コミュニケーションズ)を設立し独立、1983年に雑誌『Free』の編集長に就任しました。
2001年1月には財務省「財政制度等審議会」委員を、2月には国土交通省「社会資本整備審議会」委員を、2004年3月には生労働省「2007年ユニバーサル技能五輪国際大会」総合プロデューサーを担当しています。
2005年、クリエイティブ・シニア(現・キャンディッド・プロデュース)を設立し代表取締役社長に、2009年1月にも大人のネットワーク「club willbe」を創設し、代表になりました。
2009年8月に法務省「裁判員制度に関する検討会」委員に就任、2010年3月には藤田観光社外取締役に就任しています。
残間里江子の所属事務所
残間里江子さんは、芸能事務所に所属していません。
アナウンサーを退社してからも事務所に所属することはなかったようです。
残間里江子の年収
残間里江子さんの年収は公表されていません。
「キャンディッド・コミュニケーションズ」、「キャンディッド・プロデュース」などを設立し代表を務めているだけではなく、テレビやラジオにも出演することがあります。
活動が多岐にわたることから、年収は数千万円以上ではないかと思われます。
まとめ
これまで多くの病気と闘ってきた残間里江子さんですが、現在もプロデューサーとして活躍しています。
これからも健康を第一に、色んな事に挑戦していってほしいですね。