俳優の寺尾聰さんは、両親ともに俳優やダンサーの仕事をしている芸能一家に生まれました。
どんな両親で兄弟や姉妹はいるのかも、気になりますね。
そこで今回は、寺尾聰さんの家族構成や実家について調べてみたいと思います。
寺尾聰の父親は宇野重吉
寺尾聰さんのお父さんは、戦前から戦後の演劇界で中心的存在だった宇野重吉さんです。
『宇野重吉』は芸名で、本名は寺尾信夫さんといいます。
1914年9月27日に福島県で生まれた宇野重吉さんは、進学のために上京しました。
プロレタリア演劇に影響され、役者を志すようになった宇野重吉さんは、1932年にプロレタリア演劇研究所に入所。
舞台や映画に出演して演技も評判となりますが、戦争のため全国の農村や漁村を巡業しました。
終戦後は1950年に『劇団民藝』を設立し、日本の演劇発展に貢献しています。
俳優としてだけでなく、映画『病妻物語 あやに愛しき』『われは海の子』などで監督としても活躍。
そして宇野重吉さんは、1981年に演劇の発展に尽力したことで、紫綬褒章を受章しています。
1987年に肺癌の手術を受けたものの、復帰し舞台出演を続けていました。
しかし、1988年1月に惜しまれつつも、宇野重吉さんは73歳で亡くなりました。
息子の寺尾聰さんは、幼い頃からお父さんに俳優としての基礎を教えられていて、自身がデビューしてから困ることがなかったそうです。
とても偉大で立派なお父さんがいたからこそ、今の寺尾聰さんがいるのかもしれませんね。
寺尾聰の母親はダンサー
寺尾聰さんのお母さんは関志保子さんという方で、東京の新宿にあった大衆劇場『ムーランルージュ新宿座』でダンサーをしていました。
ダンサーとして出演していた関志保子さんに、宇野重吉さんがひとめぼれしたのがきっかけで結婚したそうです。
とても夢がある素敵な出会いですよね。
日本初のドラマ『夕餉前』に出演した経験がある関志保子さんですが、結婚後は引退して家庭に入りました。
関志保子さんはとても上品な方だったそうで、息子の寺尾聰さんはお母さんがゆったりとお茶を淹れる音からインスピレーションを得て、『出航』という曲を作ったというエピソードも。
元ダンサーや女優だった経歴を持つ寺尾聰さんのお母さんは、上品で華やかな自慢できるお母さんだったのは間違いありませんね。
寺尾聰の実家や生い立ち
寺尾聰さんは1947年5月18日に神奈川県横浜市で生まれ、東京都目黒区で育ちます。
東京で育っているので、実家は目黒区にあったと可能性が高いです。
しかし、寺尾聰さんは借金を背負った際、相続した実家も手放したと言われているので、実家はすでにないのかもしれません。
幼少期はお父さんの舞台をよく観劇していて、寺尾聰さんの俳優としての基礎になっています。
子供の頃から野球をしていた寺尾聰さんは、中学時代は4番バッターを務めていて、プロ野球選手を夢見ていました。
また、中学時代には音楽を始めた寺尾聰さん。
しかし、高校生になると寺尾聰さんは親への反抗心から不良になり、ケンカや悪事をはたらいて頻繁に警察沙汰になっていました。
高校を留年した際は、お母さんが『めったにないことだ』と言ってお赤飯を焚いてくれたのだとか。
そんな不良だった寺尾聰さんですが、ある日警察のお世話になった時、お父さんが警察署に迎えに来てくれたのです。
お父さんが来てくれたことで気持ちを切り替えた寺尾聰さんは、更生してアルバイトで学費を稼いでいました。
そして寺尾聰さんはバンド『ザ・サベージ』を結成し、デビューへの道を進むことになるのです。
寺尾聰の兄弟や姉妹
寺尾聰さんは3人姉弟で、お姉さんが2人います。
しかし、お姉さんは一般人のため、名前などは公表されていません。
お母さんがとても上品な方だったので、お姉さんたちも美しく淑やかな方たちだったのではないでしょうか。
お姉さんたちは、現在70代後半から80代だと思われますので、お孫さんがいる可愛いおばあちゃんになっているかもしれませんね。
まとめ
寺尾聰さんのお父さんは、日本の演劇界を支えてきたすごい人でした。
また、お母さんもダンサーや女優をしていて、寺尾聰さんは芸能一家で育ったこともわかりましたね。
俳優としての基礎はすべてお父さんから学んだという寺尾家の親子関係は、とても素敵だなと思いました。
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