独特の話芸と驚きのテクニックで知られる腹話術師・いっこく堂さん。
テレビでの活躍はよく目にしますが、「学生時代はどんな環境で育ったのか」「出身高校や大学はどこなのか」と気になった方も多いのではないでしょうか。
さらに、沖縄出身という情報から実家や家族への関心も集まっており、お父さんやお母さん、兄弟との関係についても知りたくなりますよね。
いっこく堂さんがどんな家庭で育ち、どのような学びの場を経て今の芸へとつながっていったのか──そうした背景をたどることで、舞台の上だけでは見えない素顔がより鮮明になってきます。
いっこく堂の学歴
いっこく堂さんは沖縄県沖縄市で生まれ育ち、地元の小学校・中学校・高校を経て、神奈川県にある専門学校へ進学しました。
少年時代は野球に打ち込みながらも、思春期の人間関係で悩んだ経験が腹話術との出会いにつながったといわれています。
その後、専門学校で舞台表現を学び、現在の腹話術師としての土台を築きました。
ここでは小学校から大学時代までを順に振り返ります。
いっこく堂の出身小学校
いっこく堂さんは、コザ教育区中の町小学校(現・沖縄市立中の町小学校)出身です。
小学4年生で野球を始め、夢はプロ野球選手になることだったそうです。
明るく活発な少年で、仲間と白球を追いかけていた姿が目に浮かびます。
いっこく堂の出身中学
小学校卒業後は、沖縄市立コザ中学校に進学しました。
野球部に所属しましたが、誤解から仲間との関係が悪化し、孤独を感じる時期があったといいます。
この経験がきっかけでテレビで見た腹話術に心を惹かれ、芸の道に興味を持ち始めました。
人間関係には悩んだ一方で、学業は優秀で、特に英語は常に高得点を取るほど得意分野だったそうです。
いっこく堂の出身高校
中学校卒業後は、沖縄県立北谷高等学校に進学しました。
偏差値は、39です。
授業料免除の成績基準を意識し、学年でも上位を維持するほど勉強に力を入れていました。
ただ大学進学を考えていなかったため、3年生の頃は少し成績が落ちたとも語られています。
高校生活では、学力面の努力がのちの舞台での集中力や探究心につながったと見ることができます。
いっこく堂の出身大学
高校卒業後は、横浜放送映画専門学校(現・日本映画大学)に進学しました。
偏差値は、44です。
ここでは映像や演技の基礎を学び、発声や表現力を磨いています。
在学中にテレビのオーディションへ挑戦し、ものまねタレントとして活動をスタート。
この経験がのちに腹話術の舞台表現へと結びつきました。
学業と挑戦の両輪が、現在の高い技術力と舞台度胸を支えていることがわかります。
いっこく堂の実家は沖縄?
先日NHKの番組で、いっこく堂が沖縄のコザで幼少期を過ごしたと知ってから、彼にとても興味が湧いてきた。 pic.twitter.com/ujjbtl1N14
— 一野篤 (@atsvshi) May 17, 2016
いっこく堂さんの実家は、幼少期を過ごした沖縄と深く結びついています。
神奈川県高座郡寒川町で生まれ、5歳で当時のコザ市(現・沖縄市)へ移り住みました。
お父さんとお母さんは地元で「サンドウィッチショップたまき」を切り盛りしていましたが、1970年のコザ騒動の影響で店を畳むことになり、家計は厳しい時期が続いたそうです。
テレビが壊れてもしばらく直せず、いっこく堂さんは友人宅でテレビを見たり、ごはんをご馳走になった—そんな原体験が「周囲への感謝」や「人前で笑顔を届けたい」という気持ちにつながっているように感じられます。
現在も実家は沖縄県内にあるとされていますが、プライバシー保護のため具体的な住所は非公開。
公に出ているのは「沖縄で育った」という事実と、地元行事や公的な活動で沖縄と関わり続けているという点です。
沖縄での暮らしが育んだリズム感や人懐っこさは、腹話術のテンポや観客との距離感にも生きており、いっこく堂さんの芸の”体温”を支える背景として語られることが多いですね。
いっこく堂の生い立ち
いっこく堂インタビュー、凄すぎる。ぱ行の腹話術について「息を止めるんです。止めないと出ないんですよ。」て。https://t.co/6Rdhv5Ho59
— 腹の中にびわ@新刊通販あり (@HarabiwA) June 9, 2022
1963年5月27日生まれのいっこく堂さんは、沖縄市で育った幼少期を「自由奔放で、いい子か悪い子かでいえば”悪い子”だった」と振り返っています。
家計を支えるためにお父さんは長期乗船の船員、お母さんは夜通し働くことも多く、家にテレビがなかった頃は近所で見せてもらった—そんな暮らしが人の温かさを教えてくれたそうです。
家の真向かいにはフォーク歌手の佐渡山豊さんが住んでおり、芸能の世界を身近に感じたことが「もし野球選手になれなかったら芸能もいいな」と思うきっかけに。
中学3年で役者に憧れ、先生のものまねで度胸をつけるうちに表現の楽しさが確かな手応えになりました。
一方で、中学時代の人間関係に悩んだ時期があったと述懐しつつ、「学年全員から無視された」といった過剰な再現は本人がブログで否定しています。
高校卒業後に劇団民藝で舞台の基礎を磨き、1992年に独学で腹話術へ転じたいっこく堂さん。
少年期の原体験と、舞台で培った技術が合流して、今の独創的な話芸に結びついています
いっこく堂の父親
いっこく堂さんのお父さんは、玉城吉弘さんです。
米統治下の沖縄で結婚後、神奈川県のタイヤ工場へ集団就職し家計を支え、その後はコザ(現・沖縄市)で「サンドウィッチショップたまき」を営みました。(朝日新聞)
しかし1970年のコザ騒動以降は米兵の外出が減り、店はやむなく閉店に。
地域紙や本人談でも、その影響が語られています。(沖縄タイムス+プラス, 朝日新聞)
閉店後のお父さんは中東と欧州を往復するタンカーにコックとして乗り、のちに下船して精肉店に勤務するなど、長期不在の多い働き方で家族を支え続けました。
幼少期、両親が不在がちだった暮らしをいっこく堂さんは公文のインタビューで振り返り、「自由奔放に育った一方で、働く背中を見てきた」と語っています。
こうした環境が、粘り強さや感謝の気持ちにつながっている印象です。
いっこく堂の母親
いっこく堂さんのお母さんは玉城京子さん。
沖縄県名護市のご出身で、若い頃は基地内のアメリカ人家庭で住み込みの仕事をしていた経験から英語が堪能でした。
幼い息子の前で、酔って騒ぐ米兵を英語でたしなめたというエピソードも残っています。(朝日新聞)
その後、お父さんとともに「サンドウィッチショップたまき」を切り盛りしましたが、1970年のコザ騒動を機に店じまいとなり、家計は厳しい時期が続きました。(朝日新聞, 沖縄タイムス+プラス)
働きづめの毎日でも、いっこく堂さんの挑戦を励まし、地元での活動やテレビ出演を喜ぶ”要の存在”であり続けたことが、各種インタビューから伝わってきます。
自由奔放に育ったという少年時代の背景には、よく働き、的確に支えるお母さんの背中があった——そう感じさせる証言です。(朝日新聞)
いっこく堂の兄弟や姉妹
いっこく堂さんにはお兄さんと弟さんがいます。
家族構成について詳しい公開は控えられていますが、朝日新聞の連載では「小学5年生のときに三男(=弟)さんが誕生し、いっこく堂さんは11歳年下の弟さんをよく保育園へ送り迎えした」と記されており、三人兄弟の次男であることがうかがえます。
幼い弟さんを可愛がってきた関係性は印象的で、のちの”面倒見のいい掛け合い”にも通じる原体験と言えそうです。
成長後の兄弟に関する詳細なプロフィールや顔写真、職業は非公開ですが、いっこく堂さんの公式ブログでは地元・沖縄のタコス店を「同級生と弟さんが営むお店」として紹介した記述があり、現在も家族とのつながりが大切にされている様子がうかがえます。
まとめ
いっこく堂さんのこれまでを振り返ると、沖縄での幼少期や学生時代の挫折、家族の支え、そして中学時代に出会った腹話術がその後の人生を大きく変えていったことがわかります。
お父さんやお母さんが苦労を重ねながらも温かく見守り、兄弟とも絆を育んできた背景があるからこそ、現在の堂々とした舞台での姿があるのだと感じた方も多いのではないでしょうか。
学歴や生い立ちをたどることで、単なる「腹話術師」という肩書き以上に、努力と挑戦を重ねてきた人柄が見えてきます。
今もなお日本だけでなく海外の舞台で観客を魅了しているいっこく堂さん。
これからの活躍も楽しみに応援していきたいですね。
関連ページでは、いっこく堂さんの最新の活動やエピソードについてもまとめていますので、あわせて読んでみてください。
