椎名林檎さんがどんな学生時代を送り、どのような環境で育ってきたのか気になったことはありませんか。
圧倒的な存在感と独自の音楽性を持つアーティストだけに、その背景にはどんな学びや家族の影響があったのか興味をそそられます。
出身高校や大学はもちろん、育った実家の環境や「お金持ちでは?」と噂される理由、さらに父親・母親の人柄や職業、お兄さんとの関係にも注目が集まります。
中でも、兄である椎名純平さんは音楽活動をしており、二人の関係性やエピソードはファンの間でも話題です。
この記事では、椎名林檎さんの学歴から家族構成、実家にまつわる情報までを整理しながら、そのルーツに迫っていきます。
椎名林檎の学歴
椎名林檎さんの学歴を振り返ると、幼少期から音楽への情熱が一貫しており、その後のアーティスト人生に直結する経験が詰まっています。
静岡で生まれ育ち、福岡への転居を経て、小学校時代から幅広い音楽に触れながら感性を磨いてきました。
中学・高校ではバンド活動や作曲に打ち込み、学生生活そのものが音楽の修業場のようだったともいえます。
特に高校時代にはコンテストでの受賞やライブハウスでの活動を経験し、在学中に「椎名林檎」という名を使い始めるなど、すでにプロへの道を歩み始めていました。
大学には進学せず、音楽一本に集中する選択をしたことが、現在の唯一無二の存在感へとつながっています。
椎名林檎の出身小学校
椎名林檎さんが通っていた小学校は、静岡市立清水有度(うど)第二小学校です。
この頃から音楽をよく聴いていた椎名林檎さんは、風の谷のナウシカのサントラや、ビリー・ジョエルなどを愛聴し、4歳から始めたピアノの影響か、ドビュッシーのピアノ曲をよく聴いていたそうです。
小学校6年生の時に、お父さんの仕事の関係で、福岡県福岡市に引っ越します。
転校先の福岡市の小学校は、残念ながらわかりませんでした。
椎名林檎の出身中学校
椎名林檎さんの通っていた中学校は、福岡市立百道(ももち)中学校です。
同中学には、1学年下に女優の山口紗弥加さんが通われていました。
山口紗弥加さんはテレビ出演した際、「椎名先輩はかわいかった」と話されています。
また、椎名林檎さんが体育祭で女子の応援団長を務めていた時のことを、インタビューで山口紗弥加さんは、「椎名先輩が考えた振り付けを私たちが踊る」と話されていました。
椎名林檎さんは中学時代は演劇部に所属し、「ドラえもん」の劇を行った際にはしずかちゃん役で出演したそうです。
また、顧問の先生から劇中の楽曲を制作するように頼まれ、それから作曲をするようになったということです。
そんな椎名林檎さんですが、中学3年生で初めてバンドを組みます。
9人組のバンドで、DREAMS COME TRUEなどの楽曲をコピーして、学園祭で演奏したそうですよ。
その頃の椎名林檎さんは、お兄さんである椎名純平さんの影響でモータウンやソウルミュージック、R&Bなどの音楽を聴いていたそうで、バンドメンバーと音楽の方向性があわず、バンドは解散することになります。
椎名林檎の出身高校
椎名林檎さんが通っていた高校は、福岡県立筑前高等学校です。
比較的新しい学校ですが地元では進学校として有名で、国立の九州大学にも毎年合格者を出しています。
椎名林檎さんは高校では軽音部に所属、いくつものバンド、様々な楽器をかけもちしていたそうです。
軽音部ではコピーバンドが多かったようで、その傍らで自分で楽曲をつくるようになり、自分の曲をJASRACに登録するため、「椎名林檎」というアーティストネームをつけます。
バンド活動は校内だけでなく、校外の友達ともバンドを組むようになり、ライブハウスで演奏するようになったそうです。
高校1年生の時に「ホリプロタレントスカウトキャラバン」に出場しますが、椎名林檎さんはアイドルを発掘するオーディションだと知らずに応募し、水着審査があったことに驚かれたそうです。
高校2年生の時には、「Marvelous Marble」というバンドで「TEENS’ MUSIC FESTIVAL」に出場、全国大会に進み、奨励賞を受賞されています。
この時のグランプリはaikoさんで、椎名林檎さんはaikoさんとの出会いを「一生忘れません」と話されています。
お2人は同じ年にデビューされていますし、ご縁をかんじますよね。
高校では成績優秀だったそうで、高校2年生の時に椎名林檎さんを教えていた数学の先生は、「数学の成績がとても良い生徒で、明るくて真面目で人柄の良さがひと目でわかる、笑顔がとてもよい生徒でした」と話されています。
そんな椎名林檎さんですが、「これからの自分の人生に関係ない勉強はしないで音楽に専念したい」という理由から、高校2年生の3学期が終わると高校を中退されます。
椎名林檎の出身大学
椎名林檎さんは高校を中退しているので、大学には通われていません。
この頃は、ピザ屋さんや警備員などのバイトをしながら、デモテープをつくっていたそうです。
この時期の行動力と決断が、のちのメジャーデビューへとつながっていきます。
椎名林檎の実家はお金持ち?
椎名林檎さんの実家については「お金持ちなのでは?」という噂が根強くあります。
理由の一つが、幼少期から続けていたクラシックバレエとピアノです。
どちらも習得には時間と費用がかかり、とくにバレエはレッスン代に加えて衣装代や発表会費用など、他の習い事よりも経済的な負担が大きいことで知られています。
椎名林檎さんはこれらを10年以上続けていたとされるため、ある程度余裕のある家庭だったと考えるのが自然です。
一方で、高校中退後はアルバイトをしながら音楽活動を続けていたことや、お父さんの仕事の都合で借家暮らしだったというエピソードもあります。
これらを踏まえると、「裕福ではあったが、いわゆる資産家や大富豪のような家庭」だったとまでは断言しづらい面もあります。
実際、音楽の道に進むまでの椎名林檎さんは、限られた環境の中でも工夫しながら学びと経験を積んできた印象です。
SNS上でも「裕福そうだけど庶民的な感覚も持っていそう」という声が見られ、華やかな経歴と地に足のついた一面の両方が、現在の独特な魅力につながっているのかもしれません。
椎名林檎の生い立ち
椎名林檎さんは1978年、埼玉県浦和市(現在のさいたま市浦和区)で誕生しました。
生まれて間もなく先天性食道閉鎖症と診断され、2日間にわたる大手術を受けています。
この手術は無事成功しましたが、後遺症として体のバランスが左右で均等にならず、力の入りづらい部分が残ったそうです。
幼少期から続けていたクラシックバレエとピアノにも影響があり、特に10年以上取り組んできたバレエは後遺症の悪化によって断念することになりました。
この時期、思春期特有の親とのすれ違いもあり、椎名林檎さんは自然と音楽に向き合う時間が増えていきます。
後年のインタビューでも「バレエを諦めたことが音楽に没頭するきっかけになった」と語っており、現在の表現スタイルの原点がこの経験にあったことがうかがえます。
家族の転勤も多く、2歳の時に静岡県清水市(現・静岡市清水区)へ、小学校6年生のときにはお父さんの福岡支店への赴任に伴い福岡市へと移住しました。
高校を中退した後も約7年間は福岡で暮らし、その間に音楽活動の基礎を固めています。
こうした移住や環境の変化は、多様な文化や価値観を吸収する機会となり、ジャンルにとらわれない音楽性にもつながっているのかもしれません。
椎名林檎の父親
椎名林檎さんのお父さんは、椎名興太郎さんといいます。
外資系の石油会社に勤めており、海外企業ならではの転勤の多い勤務環境だったため、林檎さんも幼少期から何度か引っ越しを経験しています。
こうした環境の変化は、彼女の感性や視野を広げるきっかけにもなったのかもしれません。
音楽との関わりも、お父さんの影響が大きかったようです。
林檎さんのデビューに携わった音楽プロデューサーによれば、興太郎さんは熱心な音楽愛好家で、ジャズやシャンソン、クラシックからロックまで、ジャンルを問わず数多くのLPやCDを収集していたそうです。
音楽の話になると、とても楽しそうに語っていたといいます。
「林檎ちゃんは幼い頃から質の高い音楽が自然と体に染み込んでいて、ジャズやシャンソンを取り入れる発想は若い作曲家では珍しい」とプロデューサーが評している通り、その幅広い音楽性はお父さんの影響を色濃く受けているようです。
幼少期から家庭内で日常的に流れていた多彩な音楽が、後の独創的な楽曲作りの土台になったと考えられます。
椎名林檎の母親
椎名林檎さんのお母さんは、椎名朋子さんといいます。
学生時代から舞踏を学び、特にバレエを長く続けていた方で、その影響から林檎さんも幼い頃からクラシックバレエを習い始めたそうです。
舞台や発表会に向けて衣装を準備したり、厳しいレッスンを重ねたりと、親子で同じ世界を共有していた場面も多かったのではないでしょうか。
音楽の趣味も幅広く、五輪真弓さんや太田裕美さん、寺尾聡さん、来生たかおさんといった昭和の歌謡曲・ポップスの名アーティストを好んで聴いていたそうです。
こうしたメロディや歌詞の世界観に日常的に触れていたことも、林檎さんの感性や表現力を育てる土台になったと考えられます。
また、舞踏や音楽の背景を持つお母さんの存在は、林檎さんにとって”表現すること”がごく自然な家庭環境を形づくった大きな要素のひとつだったようです。
作品に漂う独特の美意識や舞台演出へのこだわりにも、その影響が色濃く反映されていると感じられます。
椎名林檎の兄は椎名純平
椎名林檎さんのお兄さんは、シンガーソングライターの椎名純平さんです。
1974年8月6日うまれで、椎名林檎さんより4歳年上です。
椎名純平さんは、1999年に「The Another Goal ’99」というオーディションでグランプリを受賞します。
レコード会社各社の権利争奪戦の結果、ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズが権利を獲得し、2000年11月8日に、「STRUTTIN’」という椎名純平さんのためにつくられた個人レーベルからシングル『世界』でメジャーデビューしました。
現在は、椎名林檎さんが代表取締役を務める黒猫堂に所属されています。
そんな椎名純平さんですが、椎名林檎さんと3度コラボレーションしています。
2002年リリースの椎名純平さんのカバーアルバム『discover』から『Where Is The Love』、2002年同日にリリースされた椎名林檎さんのカバーアルバム『唄ひ手冥利〜其ノ壱〜』から『玉葱のハッピーソング』、そして2007年に公開の映画『さくらん』のエンディングテーマである『この世の限り』です。
プライベートでは、2000年に一般人の女性と結婚し、2人お子さんがいるそうです。
椎名林檎と椎名桔平の関係は?
椎名林檎さんと俳優の椎名桔平さんが兄妹ではないか、という噂を耳にしたことがある方も多いかもしれません。
しかし実際には血縁関係はありません。
椎名桔平さんの本名は岩城正剛さんで、出身地は三重県伊賀市。
一方、椎名林檎さんの本名は椎名裕美子さんで、出身は埼玉県浦和市(現在のさいたま市浦和区)です。
名字が同じ「椎名」であることから誤解されやすいのですが、そもそも姓も出身地も異なります。
林檎さんの兄弟は、同じくミュージシャンとして活躍している椎名純平さんだけです。
SNSでも「本当に兄妹だと思っていた」という声は根強く見られますが、これはあくまで偶然の名字の一致による勘違いです。
とはいえ、どちらも独自の存在感と芸術的な魅力を持ち、名前の響きや活躍の幅広さから「似た空気感」を感じる人も多いのかもしれません。
まとめ
椎名林檎さんの学生時代や実家の環境、ご両親やお兄さんとの関係を振り返ると、幼少期から音楽や芸術に自然と触れる機会が多かったことがよくわかります。
バレエやピアノ、そして多彩な音楽ジャンルに囲まれた家庭環境は、現在の独創的な音楽性を形づくる大きな土台になっているようです。
ご家族のエピソードを知ることで、楽曲や歌詞の背景にも新たな視点が生まれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
今後も椎名林檎さんがどのような作品を届けてくれるのか、その活動から目が離せません。
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