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唐十郎の本名や国籍は?代表作・出身高校や大学は?父親と母親兄弟も

karajyuro_career 作家
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唐十郎さんは、劇作家・演出家・俳優として活動し、劇団「唐組」主宰や大学の客員教授を務めていました。

そんな唐十郎さんの家族はどんな人で、学生時代はどこの学校に通っていたのでしょうか。

今回は、唐十郎さんの経歴や出身学校、家族などについて調べてみました。

唐十郎の本名や芸名由来は?

唐十郎さんの本名は、「大鶴義英 (おおつる よしひで)さんと言います。

芸名は、三島由紀夫さんのエッセイ『太陽と鉄』にある「昔、唐天竺に十人のつわものありき」という漢詩からとったものだそうです。

唐十郎の国籍は?韓国との関係は?

唐十郎さんは、日本生まれ日本育ちなので国籍も日本です。

韓国の抵抗詩人で、当時保釈中の金芝河との合同公演をもくろみ、戒厳令下の韓国に渡航して取材をし『二都物語』を執筆しました。

1972年3月には再度渡韓し、無許可のまま、ソウルにて金芝河作の『金冠のイエス』とともに『二都物語』を韓国語で上演しています。

唐十郎の代表作

唐十郎さんの代表作は、「泥人魚」です。

この作品では第7回鶴屋南北戯曲賞、読売文学賞を受賞しました。

唐十郎の学歴

唐十郎さんが通っていた学校について調べてみました。

唐十郎の出身小学校

唐十郎さんは、下谷区立(現・台東区立)坂本小学校出身です。

こちらの学校は1996年に閉校しました。

唐十郎の出身中学

小学校卒業後は、駒込中学校に進学しました。

偏差値は、61~66です。

唐十郎の出身高校

中学校卒業後は、東邦大学付属東邦高等学校に進学しました。

偏差値は、74です。

唐十郎の出身大学

高校卒業後は、明治大学に進学しました。

唐十郎さんは文学部に在籍、偏差値は66~73です。

唐十郎のプロフィールや経歴

名前:唐十郎
生年月日:1940年2月11日
出身地:東京府(現・東京都)
血液型:O型
身長:163cm

1963年に劇団「シチュエーションの会(翌年「状況劇場」に改名)を仲間たちと旗揚げした唐十郎さんは、1964年に『24時53分「塔の下」行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている』で初めて「唐十郎」として作品をつくりました。

その後は紅テントによる公演を開始、1969年に「都市公園法」違反や暴力行為で、1974年に初監督映画『仁侠外伝・玄界灘』撮影中に本物の拳銃を使い、現行犯逮捕されていますが、その後も活動を続けています。

1983年には「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞、1988年に状況劇場を解散して劇団「唐組」を旗揚げ、作・演出・出演を務めています。

1997年10月に横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程教授に就任、2012年には明治大学客員教授に就任、2021年11月に文化功労者に選出されました。

唐十郎の所属事務所

唐十郎さんは、劇団「唐組」に所属しています。

こちらは自身が立ち上げた劇団で、1988年までは「状況劇場」に所属していました。

唐十郎の年収

唐十郎さんの年収は公表されていません。

生前多方面で活躍していたことから、数千万円以上になるのではないかと思われます。

唐十郎の実家や生い立ち

1940年2月11日に誕生した唐十郎さんは、東京府東京市(現:東京都台東区)北上野に誕生しました。

幼年期は下谷万年町(現:東上野)の長屋で育ち、戦時中は福島県に疎開しています。

高校入学時はお父さんの希望で医者志望だったものの、大学卒業後には劇団青年芸術劇場に研究生として入団しました。

数か月は唯一のサラリーマン経験として、怪しげな地図会社に勤務して、地図の広告取りの仕事をしたそうです。

1963年に青年芸術劇場を退団し「シチュエーションの会」を旗揚げしました。

唐十郎の父親は大鶴日出栄

唐十郎さんのお父さんは、大鶴日出栄さんと言います。

お父さんは、理研映画で監督・プロデューサーを務めていました。

1991年に亡くなっています。

唐十郎の母親

唐十郎さんのお母さんの名前は公開されていません。

同人誌に台本を書いていたお母さんは、町の婦人会長も引き受けていたそうです。

唐十郎の兄弟や姉妹

唐十郎さんは、大鶴家の次男として誕生しました。

そのためお兄さんがいることは判明していますが、名前や職業は公開されていません。

まとめ

お父さんからは医者になることを希望されていた唐十郎さんでしたが、歩んだ道は同じ芸能でした。

新しい作品を観ることはもうできませんが、唐十郎さんが残した作品をこれからも多くの人に楽しんでもらいたいと思います。

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