パティシエとして高い評価を受けている鎧塚俊彦さん。
華やかなキャリアを築いてきた一方で、左目の失明や家族との別れなど、決して平坦とは言えない人生を歩んできたことをご存じでしょうか。
京都・宇治で職人一家に生まれ育ち、大学進学という道を選ばずに製菓の世界へ飛び込んだ背景には、どんな思いや環境があったのでしょう。
この記事では、鎧塚俊彦さんの出身高校や大学にまつわる話から、実家のルーツ、ご両親や兄弟との関係、そして視力を失うことになった病気のことまで、気になる素顔を丁寧にひもといていきます。
鎧塚俊彦の学歴
鎧塚俊彦さんは、幼少期から勉強と仕事を両立させながら着実に歩んできた努力型の人物です。
進学先や学生時代のエピソードには、後のパティシエとしての基盤となる価値観や働き方がにじんでいます。
それぞれの学歴について順に見ていきましょう。
鎧塚俊彦の出身小学校
鎧塚俊彦さんは、宇治市立菟道小学校出身です。
子どもの頃から食べることが好きで、日常のなかで「美味しいものを味わう」という喜びを大切にしていたそうです。
のちに製菓の世界を志す原点が、こうした幼少期の感覚にあったのかもしれません。
鎧塚俊彦の出身中学
小学校卒業後は、宇治市立宇治中学校に進学しました。
この頃から新聞配達のアルバイトを始めており、早い段階で働くことの大変さや責任感を学んでいたことがわかります。
家庭の経済的事情からか、自立心の強さが育まれていたこともうかがえます。
鎧塚俊彦の出身高校
中学校卒業後は、京都府立城南高等学校(現:京都府立城南菱創高等学校)に進学しました。
現在の偏差値はおおよそ57~65で、比較的進学意識の高い学校です。
高校時代にはガソリンスタンドでアルバイトをしており、真面目な勤務態度が評価されて臨時所長のような立場を任されていたといいます。
鎧塚さん自身、当時の生活について「決して食べるのに困るほど貧しかったわけではないが、とにかく必死に働いていた」と振り返っています。
鎧塚俊彦の出身大学
高校卒業後は、進学していません。
家庭環境から子供の頃から大学に行くという選択肢はなかったそうです。
その後、社会人生活を経て辻製菓専門学校に進学しています。
こちらの学校は2024年4月より辻調理師専門学校と統合され、製菓と調理のプロを育てる総合教育機関となっています。
社会経験を経てから進学した鎧塚さんの姿勢からは、目的をもって学びに向き合う姿勢や、遅咲きでも夢を叶えられるという力強さが感じられます。
鎧塚俊彦の左目は義眼?
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2012年、パティシエの鎧塚俊彦さんは左目の視力を失ったことを公表しました。
実際には、それ以前から不調を抱えており、3度の手術を経ても改善が見られなかったそうです。
ご本人はインタビューで「もう義眼にしないといけないかもしれない」と思い詰めていた時期があったと語っています。
そんな状況下で転機が訪れます。
親交のあった「鈴廣かまぼこ」の鈴木智恵子さんが、医師たちの強力なネットワークを活用し、鎧塚さんに”眼科医のドリームチーム”と呼べる名医たちを紹介したのです。
このつながりにより、鎧塚さんは視力回復こそ叶わなかったものの、眼球の温存に成功しました。
視力喪失の原因は眼圧上昇による神経への長期的な圧迫だったとされ、視神経の損傷によって光を感じる機能が失われてしまったようです。
外見上は左目に異変があるようには見えず、本人もテレビやイベントで左目を隠さずに登場するため、SNSなどでは「義眼ではないか」との噂が広まっています。
しかし、鎧塚俊彦さんが「義眼を入れている」と公言した事実は確認されておらず、現在も義眼は使用していないと考えられています。
週刊誌のインタビューでも「左目はまったく見えないが、義眼ではない」という趣旨の発言がありました。
ご本人は視力を失っても隠すことなく生きる姿勢を選んでいることがうかがえます。
視覚障害者手帳など公的な手続きの有無については明らかにされていませんが、鎧塚さんは仕事や日常生活で大きな支障が出ないよう工夫を凝らして活動を続けています。
見た目からは分からない葛藤や努力がある中で、第一線で活躍し続ける姿は、多くの人に勇気を与えているのではないでしょうか。
鎧塚俊彦は糖尿病で失明していた
鎧塚俊彦さんが左目の視力を失った原因について、ネット上では「糖尿病による失明」という憶測が一部で広がっていましたが、実際は「網膜中心静脈閉塞症」という目の病気が直接的な要因でした。
この病気は、網膜の中心静脈が詰まり血流が滞ることで視力に深刻な影響を与えます。
失明リスクが高い点では糖尿病と似ていますが、鎧塚さん本人が糖尿病を患っていたという明確な証言は確認されていません。
医学的にも、この病気は主に高血圧や動脈硬化が原因とされるため、「糖尿病による失明」という表現は誤解を招きかねません。
鎧塚さんが異変を感じたのは2009年頃です。
もともと視力が良かった彼は、初めは「少し見えにくいかも」と軽く考えていました。
多忙な日々の中でその違和感を放置したため、数ヶ月後には視界が急激に悪化しました。
病院で診断された「網膜中心静脈閉塞症」は早期発見・治療が難しく、残念ながら左目の視力を取り戻すことはできませんでした。
視力喪失により、繊細な作業が必要なパティシエとしての仕事に支障が出ることは避けられず、鎧塚さんは一時「引退」も考えたと言います。
そんな彼を支えたのは弟子たちと、当時の妻・川島なお美さんでした。
特に川島さんは精神面でのサポートだけでなく、医師との連携や治療方針の選択にも積極的に関わり、深い夫婦の絆を示すエピソードとして語り継がれています。
その後、鎧塚さんは視力に頼らず感覚と経験を活かしたお菓子作りのスタイルを確立しました。
現在も国内外でパティシエとして精力的に活動を続け、視覚障害を抱えながらも第一線で活躍する姿は、多くの人に希望と勇気を与えています。
鎧塚俊彦のプロフィールや経歴
【グルメ&スイーツ】スイーツアワード審査員紹介!パティスリー「Toshi Yoroizuka」のオーナーシェフ、鎧塚俊彦氏が出演決定♪ #女子博 #女子博グルメスイーツ pic.twitter.com/1v4K90Lvhe
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名前:鎧塚俊彦
生年月日:1965年10月16日
出身地:京都府
血液型:非公開
身長:非公開
23歳の時に守口プリンスホテル(現:ホテル・アゴーラ大阪守口)に入社した鎧塚俊彦さんは、パティシエとして3年間勤務し、1992年に神戸ベイシェラトンホテル&タワーズのセクションシェフから副製菓長として3年間務めました。
1995年にスイス・シャフハウゼン「ツッカーベッカライ エルマティンガー」に入店すると、オリジナル菓子「トシ・マンデル・クローネ」が人気商品になりました。
その後もオーストリアウィーン郊外「バックハウスアンナミューレ」でアシスタントシェフ、パリ2区モントルグイユ通りにあるパリ最古の伝統店「ストレー(fr:Nicolas Stohrer)」、 ベルギーの3つ星レストラン「Bruneau(ブリュノウ)(en:Bruneau (restaurant))」で勤務しました。
2000年には“INTERSUC 2000(パリ)”で優勝、2003年に「有限会社アトリエ・サンセール」を設立し、翌2004年に恵比寿で「Toshi Yoroizuka」を開業、2005年にはお菓子教室「ECOLE TOSHI」を恵比寿の店舗に開設しています。
2007年に東京ミッドタウンで「Toshi Yoroizuka MID TOWN」を開業、2011年には神奈川県小田原市に「一夜城ヨロイヅカファーム」を、2016年に神奈川県藤沢市に「キッシュヨロイヅカ江ノ島店」を開業しました。
さらに東武百貨店池袋店に「キッシュヨロイヅカ」の2号店となる「キッシュヨロイヅカ池袋東武店」、渋谷ヒカリエShinQsにキッシュヨロイヅカ3号店、キッシュヨロイヅカ南青山店がオープンしています。
鎧塚俊彦の所属事務所
鎧塚俊彦さんは芸能事務所に所属していません。
テレビや雑誌などメディアに出演することもありますが、タレント活動が本業ではなく、パティシエとしての専門分野で活躍する人物です。
そのため、マネジメントも一般的な芸能界のスタイルとは異なり、すべて自社を通じて行われています。
鎧塚さんが展開するブランド「Toshi Yoroizuka(トシ・ヨロイヅカ)」は株式会社サンセリーテが運営しており、彼自身がその代表取締役を務めています。
サンセリーテは製菓の企画・開発・販売に加え、飲食業や商品プロデュース、イベント運営など幅広い事業を展開し、鎧塚さんの活動全般を支える母体となっています。
企業の所在地や公式情報はToshi Yoroizukaの公式サイトに明記されており、高い透明性と信頼性のある運営体制が確立されています。
メディア出演についても、タレントとして事務所を通じたオファーではなく、シェフとしての活動やイベント、企業コラボに関連して対応するケースが多いようです。
「所属事務所はどこ?」と疑問に思う方もいますが、実際には自社ブランドの経営と現場を両立させる独立した自営業者として活動していると考えるのが適切でしょう。
鎧塚俊彦の年収
鎧塚俊彦さんの具体的な年収については公的に明かされた情報はありません。
しかし、長年にわたって第一線で活躍するパティシエであり、複数の自社店舗とブランド運営を手がける実業家でもあることから、その年収は一般的な料理人の枠を大きく超えていると見られています。
鎧塚さんが代表を務める「Toshi Yoroizuka」は東京ミッドタウンや京橋などに直営店を展開し、店舗限定スイーツや季節商品が人気を集めています。
テレビや雑誌での露出も多く、国内外の催事や企業コラボレーションなど収益源が多角化されているのが特徴です。
さらに百貨店での催事販売やECサイトでの商品販売も精力的に行っており、個人ブランドとしての年商は数億円規模に達していると考えられています。
近年は「シェフの顔が見えるブランド」が消費者の信頼を集める傾向が強まっており、鎧塚さん自身がイベントやメディアに積極的に出演することでブランド価値を高めています。
講演活動や書籍出版、飲食監修、商品開発なども手がけており、一般的なパティシエとは次元の異なるビジネス展開を行っていることは明らかです。
これらの要素を総合すると、鎧塚俊彦さんの年収は「億単位ではないか」との見方も一部であり、少なくとも高額所得者層に分類されると考えられます。
ただし、飲食業界は設備投資や人件費などの固定コストも大きいため、単純な店舗数や知名度から年収を算出することは難しく、あくまで推測の域を出ないことには注意が必要です。
鎧塚俊彦の実家
鎧塚俊彦さんは京都府宇治市の出身です。
ご実家の正確な住所や外観は公表されていませんが、過去のインタビューで「もともと武家屋敷だった場所で育った」と語っています。
現在も親族を含む複数世帯がそこに住んでおり、鎧塚家を含む14軒の世帯がその敷地内で暮らしていたという証言もあります。
これは歴史ある地域に根付いた家系であることを示しています。
宇治市は京都府内でも自然と文化が調和した場所として知られ、平等院鳳凰堂や宇治茶の名産地としても有名です。
鎧塚さんの家庭環境も、こうした文化的背景の影響を受けていたかもしれません。
彼はこれまで「豊かではなかったけれど、家族みんなで助け合って暮らしていた」と語っています。
幼い頃から労働意識が強く、新聞配達やガソリンスタンドでのアルバイトなどを経験してきました。
鎧塚さんのルーツについては、SNS上で「実家はお金持ちなのでは?」といった憶測が見られることもありますが、本人の発言からは裕福ではなく、むしろ堅実な暮らしの中で努力を重ねてきたことがわかります。
この原体験が、現在の職人としての姿勢や経営者としての堅実さにつながっていると考えられます。
なお、宇治市の実家が現存しているか、また彼が頻繁に帰省しているかについての詳細は明らかになっていません。
しかし過去のテレビ出演では地元を訪れる姿も見られ、故郷とのつながりを大切にしている様子がうかがえます。
鎧塚俊彦の生い立ち
1965年10月16日に誕生した鎧塚俊彦さんは、子供の頃から食べることが好きで、テレビ番組でフランス料理のフルコースなどを紹介していると「こんな料理を食べてみたいな」と思いながら見ていました。
ただお父さんが外食を好まない人で、年に1~2回ほど百貨店の食堂に連れて行ってくれる程度だったため、「ああいう料理を食べたいなら自分で作るしかない」と思っていたそうです。
高校卒業後は料理や洋菓子に全く関係のない仕事に就いていたものの一生続けたいと思うまでの熱意は持てず、子供の頃から好きだった食の世界を目指そうと決めてお菓子の世界に入りました。
料理ではなく洋菓子を選んだのは、「当時、大学に進学しない人間は自動車、土木、料理の方面に進むことが多く、男子でお菓子屋さんになりたいという人間が周りにいなかったから。そこに面白味を感じた」と明かしています。
鎧塚俊彦の父親
鎧塚俊彦さんの父親は、一般人でありながら家具職人として長年活躍した人物です。
鎧塚家は祖父の代から続く木工職人の家系でしたが、鎧塚さん自身によれば、父親から「跡を継げ」と強く言われたことは一度もなかったといいます。
職人の世界によくある「技術の継承」にこだわるのではなく、子どもの自由な進路選択を尊重する柔軟な考え方の持ち主だったのです。
一方で、職人気質の父親からは仕事への厳しさや妥協を許さない姿勢を自然と学んでいたとも語られています。
幼少期に鎧塚さんが見た「職人の背中」は、後に製菓の世界で活躍する中で大きな影響を与えました。
丁寧な手仕事を重んじ、細部まで神経を使う姿勢は、まさに家具職人だった父親から受け継いだ価値観といえるでしょう。
父親はすでに他界しており、59歳という若さで亡くなりました。
同じ年に祖父も亡くなり、鎧塚さんにとっては精神的に大きな転機となる時期だったようです。
父と祖父という「二人の柱」を同時に失った経験は、深い悲しみとともに、自身の生き方を見つめ直す契機になったのではないでしょうか。
父親がどのような家具を製作していたのか、工房やブランド名などの詳細は明らかになっていませんが、職人としての仕事ぶりやものづくりへのこだわりは、鎧塚俊彦さんの姿勢に確かに息づいています。
表舞台に出ることはなかったものの、その存在は鎧塚さんの芯にしっかりと刻まれているのです。
鎧塚俊彦の母親
鎧塚俊彦さんのお母さんも一般人です。
お母さんは富山県の住職の家に生まれものの、両親を早くに亡くし親戚の家で育てられました。
幼い頃からお寺や学校で下働きをし続けた、京都で金物屋の職に就いてからは今までの苦労が実り働き者で通り社長にも気に入られ、そして腕の良い家具職人だったお父さんと知り合ったそうです。
お母さんも「勉強しろ」とは言わなかったものの、「仕事て認められてこそ一人前」「手に職をつけろ!手に職のある奴は一生食いっぱぐれが無い!」というのが口癖でした。
鎧塚俊彦の兄弟や姉妹
鎧塚俊彦さんには、兄と姉がいる三人きょうだいの末っ子です。
家族についてご本人が語る機会はあまり多くないものの、兄については具体的な情報が確認されています。
お兄さんは京都府宇治市で「鎧塚造園」という造園業を営んでおり、地域に根ざした職人仕事を続けておられるようです。
社名からも分かる通り、家業のような形で屋号を継ぎ、地元で信頼される造園業者として活動している様子がうかがえます。
造園という分野も、丁寧な手仕事や美的感覚が求められる職業であり、兄弟で異なる道を選びながらも”職人としての精神”を共有している点が興味深いところです。
一方、お姉さんに関しては一般の方であり、名前や職業、現在の暮らしぶりなどの詳細は公表されていません。
ただ、三人きょうだいで育ったことは公にされており、鎧塚さんがテレビなどで時折見せる家族思いな一面は、そうした家庭環境の中で育まれたものかもしれません。
なお、鎧塚俊彦さんのインタビューなどでは、「家族のことはあまり表に出さないようにしている」といったニュアンスの発言もあり、あくまで自身のキャリアや信念を中心に語るスタンスをとっている印象です。
だからこそ、ご家族に関する情報は限られていますが、代々職人の家系で育ち、兄弟それぞれが自分の道を歩んでいるという背景からは、堅実で信頼に足る家族関係が築かれていることがうかがえます。
まとめ
鎧塚俊彦さんは、京都・宇治で職人一家に育ちながらも、家業に縛られることなく自分の道を選び抜いた方です。
大学進学はせず社会に出てから専門学校で製菓の技術を学び、そこから世界を舞台に活躍するパティシエとなりました。
左目の視力を失うという大きな困難にも直面しましたが、それを受け入れながらも第一線で挑戦を続けている姿には、多くの人が勇気をもらっているのではないでしょうか。
ご家族との関係や、職人としてのルーツも随所に垣間見え、鎧塚さんの芯の強さが伝わってきます。
これからも、その真摯な姿勢と温かい人柄で、多くの人を魅了していくことでしょう。
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