記事内にPRが含まれています。
スポンサーリンク

倉本聰の嫁は平木久子で娘は倉本由美!姉の孫や姪|実家や父親と母親について

kuramotosou_family 作家

脚本家の倉本聰さんは、どんな家庭で育ったのでしょうか。

奥さんはどんな人で、子供は何人いるのでしょうか。

今回は、倉本聰さんの結婚や子供、実家の家族について調べてみました。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
Advertisements

倉本聰の嫁は平木久子

倉本聰さんの奥さんは、女優の平木久子さんです。

これまでにドラマ『三四郎』や『新帰朝者』などに出演しました。

舞台でも活躍していたようですが、現在の活動については不明です。

倉本聰と平木久子の馴れ初め

倉本聰さんと平木久子さんの出会いは、劇団「仲間」でした。

同時期に劇団入りしたことで距離が縮まり、1961年に結婚しました。

倉本聰の娘は倉本由美で養女

倉本聰さんと平木久子さんの長女は、イラストレーターの倉本由美さんです。

倉本由美さんは北海道の富良野ワイン「羆(ひぐま)の晩酌」のラベルなどを手掛けたそうです。

倉本聰さんと平木久子さんの実子ではなく、知り合いの娘で養子だと言われています。

姉の孫(姪の娘)は鈴井沙彩・三鷹ストーカー事件の被害者

2013年10月、女子高生が元交際相手に刺されて亡くなるという事件がありました。

この被害者の女子高生は、倉本聰さんのお姉さんの孫の姪っ子・鈴木沙彩さんです。

鈴木沙彩さんは自身のブログで「大伯父さんは倉本聰」と公表、小学生の頃から女優を目指し芸能活動を行っていました。

倉本聰の実家

倉本聰さんは、東京都渋谷区代々木で誕生しました。

4歳の時に杉並区の善福寺に引っ越しています。

家業として自然科学系の出版社を営んでいました。

お父さんの山谷太郎さんは、医学雑誌の出版や新薬の販売などを手がけた実業家でありながら、俳人としても知られる多才な人でした。

家庭には文学や自然科学が息づく環境があり、倉本さんの作品にもその影響が感じられますね。

また、ご両親はクリスチャンで、家庭にはその価値観も根づいていました。

戦時中には一時的に山形県上山市や岡山県浅口郡金光町に疎開した経験もあり、このような幼少期の環境が後の倉本さんの脚本や創作活動に深い影響を与えたのではないでしょうか。

家族が営む事業やその思想が織りなす豊かな文化的背景が、現在の倉本さんを形作る土台となったことは間違いありません。

倉本聰の生い立ち

1934年12月31日に誕生した倉本聰さんは、ぼんやりした子供だったそうです。

お父さんから「勉強をしろ」とは言われなかったものの、5歳のころから宮沢賢治の童話を音読させられていました。

倉本聰さん自身は東京大学にこだわりはなかったものの、お父さんやお兄さんが東京大学出身だったためお母さんの願いから2浪して東京大学文学部に入学、ただ予備校時代から勉強をせずに映画ばかり観ていたそうです。

入学後も勉強はそっちのけの生活は変わらず、アルバイトをしながら劇団『仲間』の文芸部に籍を置き、脚本の習作を次々と書いて、2年生の時にラジオドラマで脚本家デビューしました。

倉本聰の父親

倉本聰さんのお父さんは、山谷太郎さんと言います。

山谷太郎さんは、第六高等学校及び東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し日清製粉に入社。その後父親が経営する日新医学社に入り、その経営に当たる傍ら月刊雑誌『科学ペン』を主宰しました。

日新医学社社長を経て、自ら日新書院を創業、同社社長ののち取締役を務めました。

倉本聰の母親

倉本聰さんのお母さんは一般人です。

お父さん似は再婚歴があり、倉本聰さんのお母さんは後妻でした。

倉本聰の兄弟や姉妹

倉本聰さんは、5人兄弟の真ん中として誕生しました。

お兄さんとお姉さんはお父さんの前妻との子供で、お母さんが違います。

倉本聰さんがそのことを知ったのは10歳の時でした。

お兄さんとお姉さん、妹さんと弟さんは一般人です。

まとめ

倉本聰さんは家族についてあまり公開していませんが、幼い頃から家族仲が良く、今も奥さんや娘さんと良好な関係を築いているようです。

倉本聰さん家族がそれぞれの道でこれからも輝き続けていけるよう、見守っていきたいと思います。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
作家

タイトルとURLをコピーしました