中東オマーンの砂漠に世界一の学校を創設し、「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれたスワーダ・アル・ムダファーラさん。
彼女は日本人女性として生まれながら、イスラム教徒に改宗し、オマーンの教育界で名を馳せた稀有な存在です。
その人生は困難と挑戦、そして驚くべき成功に満ちています。
ここではスワーダ・アル・ムダファーラさんの本名から学歴、国籍変更、さらには現在の収入に至るまでを詳しくたどっていきます。
スワーダ・アル・ムダファーラの前の本名は森田美保子
スワーダ・アル・ムダファーラさんの人生を語る上で欠かせないのが、本名の変遷です。
日本で生まれ育った彼女は「森田美保子」という名で生活していましたが、その後イスラム教徒となり、オマーンに帰化する過程で名前も大きく変わりました。
日本人時代の本名や改名
彼女の旧日本名は「森田美保子」さんです。
東京都立川市で育ち、銀行員として働いていた20代から30代初めまで使用されていました。
ごく普通の日本人女性の人生を歩んでいたものの、その後の転機によって運命は大きく変化していきます。
改名は単なる国際結婚による姓の変更ではなく、極めて複雑な法的手続きを必要としました。
日本の法律では、宗教改宗のみを理由にした改名は原則認められていません。
そのため、スワーダ・アル・ムダファーラさんは家庭裁判所に申し立てを行い、まずアラビア語のムスリム名に変更したうえでオマーン国籍を取得するという手順を踏みました。
これは当時としては極めて異例のケースでした。
名前に込められた深い意味
現在の正式名は「スワーダ・ビント・モハメッド・ビン・アブドゥラ・アル・ムダファーラ」。
イスラム法学者(ムフティー)が与えた宗教的意味合いを持つ名前で、「預言者ムハンマドの娘」という意味を含む部分もあります。
これはオマーン社会で高い格式を示す象徴的な命名であり、彼女の特別な立場を物語っています。
名前は多言語で使用されており、
- 英語表記:Suad Mohammed Abdullah Al-Mudhaffar
- アラビア語表記:سعاد بنت محمد بن عبدالله المظفر
とされています。
名前の変遷そのものが、彼女の文化的アイデンティティの転換を象徴しています。
学歴:日本の伝統教育から国際的視野へ
スワーダさんの学歴は「大学に進学していない」という点が特徴的ですが、それ以上に豊かな人生経験を通じた学びが際立ちます。
中学・高校時代
彼女は東京都立川市で育ち、藤村女子中学校・高等学校を卒業しました。
この学校は「清純・勤勉・愛国」を校訓とする歴史ある女子校で、品格や教養を重んじる教育が行われていました。
高校時代には琴、茶道、華道の免許を取得しています。
これらの日本文化の素養があったからこそ、1979年のオマーン文化使節団への参加に選ばれ、後の人生を決定づけるきっかけとなりました。
高校卒業後は大学に進学せず
大学には進学せず、高校卒業後は銀行員として社会に出ました。
ですが、銀行業務を通じて金融知識を身につけ、その後のファッション学園経営や教育事業を通じて、経営・教育・国際関係など幅広い分野を実践的に学んでいきました。
「Nothing is impossible(人生に不可能はない)」という信念のもと、彼女は継続的に学び続けました。
異文化の中で自ら教育哲学を形成していった姿勢は、現代の「生涯学習社会」を先取りした存在とも言えるでしょう。
スワーダ・アル・ムダファーラの経歴
- 名前:スワーダ・アル・ムダファーラ(旧名:森田美保子)
- 生年月日:1950年生まれ(東京都立川市出身)
- 現在の活動:講演、教育コンサルティング、ライフコーチング、文化交流事業など
- 受賞歴・評価:
- 米「ニューズウィーク」誌「世界が尊敬する日本人100人」に選出
- 「Northwest Asian Weekly」にて「世界を変えた女性リーダー10人」に選出
- 外務省より令和5年度「外務大臣表彰」受賞
- 著書:
- 『校長先生、大好き!』(求龍堂)
- 『砂漠に創った世界一の学校』(アスペクト)
スワーダ・アル・ムダファーラさんの歩みは、銀行員として社会に出たのち、起業家を経てオマーンで学校を設立し、教育者として名を馳せるという波乱に富んだものです。
1971年から東京都民銀行に勤務し、金融の実務を経験しました。
この時期に培った知識や社会人としての基盤は、後に学校経営へとつながる大きな財産となっています。
職場での結婚と離婚を経験したことも、スワーダさんにとって自立心を強めるきっかけになったといわれています。
銀行を退職後は埼玉でミワ服飾学園を立ち上げ、さらに東京でミワファッション工房を設立し、若い女性たちに技術と学びの場を提供しました。
これは、当時まだ限られていた女性の社会進出を支援する取り組みでもあり、教育事業に携わる原点となった時期です。
その後、日本文化の担い手として1979年に文化使節団に加わりオマーンを訪問した際、「現地の女性に日本の心を伝えてほしい」と依頼を受け、滞在を決意しました。
現地での生活を通じてイスラム教に深く共感し、1983年にはオマーン人男性と結婚して国籍を取得。
完全にオマーン社会へ溶け込むことになります。
1990年には念願の「アザン・ビン・ケイス・プライベートスクール」を設立し、幼稚園児わずか5人から出発しましたが、熱意ある教育方針と革新的なカリキュラムにより学校は急成長し、2010年には800人を超える生徒が学ぶ名門校へと発展しました。
この間、スワーダさんは生徒一人ひとりに向き合い、英語教育やコンピュータ教育を早期から導入するなど、当時としては画期的な取り組みを行っています。
その功績は国内外で高く評価され、米誌「ニューズウィーク」の「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれました。
2010年に校長職を退いた後も活動は続き、ライフコーチや教育アドバイザーとして講演やコンサルティングを精力的に展開し、日本とオマーンの交流の懸け橋となっています。
教育現場を離れた後も、知識と経験を活かして新たな形で社会に貢献し続けている点が、スワーダさんの経歴の大きな特徴といえるでしょう。
元日本人としての国籍変更
彼女の国籍変更は、日本法制史上でも特筆される事例です。
日本では宗教改宗による改名は認められていないため、家庭裁判所での申し立てを経て名前を変え、その後オマーン国籍を取得しました。
この一連の手続きは非常に異例で、当時の日本の法律の枠を超えた挑戦でした。
さらに、イスラム法学者による命名や、オマーン国王の下での特別な承認もあり、極めて高い社会的意義を持っています。
彼女は日本国籍を失う代わりにオマーン社会に完全に統合し、現在は日系オマーン人一世として国際的な役割を果たしています。
スワーダ・アル・ムダファーラの年収
スワーダ・アル・ムダファーラさんの具体的な年収額は公表されていませんが、これまでの活動内容からその経済的基盤の強さを推し量ることができます。
まず校長時代には、1990年に設立した「アザン・ビン・ケイス・プライベートスクール」をわずか幼稚園児5人からスタートさせ、2010年には800人以上が通う大規模校に育て上げました。
オマーンの私立名門校として高い学費設定が可能だったとされ、その学費収入が彼女の安定した経済力を支える大きな柱になっていたと考えられます。
現在は校長職を退任し、収入源は多角化しています。
ライフコーチとして個人や企業に向けてカウンセリングや指導を行い、教育や国際理解、女性の社会進出をテーマにした講演活動も精力的に展開しています。
こうしたメディア活動は知名度を高めるだけでなく安定した収入にもつながっています。
さらに、自身の教育哲学をまとめた著書の印税も継続的な収入源となり、教育コンサルティングや観光分野での助言、さらには日本語・英語・アラビア語を駆使した通訳・翻訳サービスまで幅広く手掛けています。
特に国際的な知名度と三言語を操る能力、そして日系オマーン人一世という稀有な立場が付加価値となり、高額な講演依頼やコンサルティング依頼が絶えない状況にあります。
現在の収入源
- ライフコーチング事業:個人・企業向けに展開
- 講演活動:教育・国際理解・女性の社会進出などがテーマ
- メディア出演:「徹子の部屋」など日本のテレビ番組やラジオ出演
- 著作の印税:教育と人生哲学を描いた著書を出版
- 教育・観光コンサルティング:両国間の交流を支援
- 通訳・翻訳サービス:日本語・英語・アラビア語を活かした業務
これらを組み合わせ、多角的に収入を得ています。
特に国際的な知名度とネットワークが大きな強みとなっています。
SNS上では「オマーンの教育界を代表する女性リーダーとして国内外から高額の講演料を得ているのでは」という声も見られますが、正確な金額は明らかにされていません。
ただ、年に数回の海外渡航や継続的な出版・講演活動を続けられる生活基盤から判断すると、教育者としての実績を基盤にした十分な経済的成功を収めていると見てよさそうです。
まとめ
スワーダ・アル・ムダファーラさんの人生は、日本人女性が異文化に飛び込み、教育を通じて社会を変えるほどの成果を残した稀有な物語です。
「Nothing is impossible」という信念のもと、銀行員から起業家、そしてオマーンの教育者へと歩んだ軌跡は、現代社会に「多様性と学びの力」の大切さを示しています。
今後も彼女は、日本とオマーンを結ぶ重要な存在であり続けるでしょう。

