お笑いタレントとして活動している出川哲朗さんは、数年前まで「抱かれたくないタレント」として女性を中心に「嫌われ者」と言われていました。
そんな出川哲朗さんが何故今は多くの人から愛され、親しまれているのでしょうか。
今回は、出川哲朗さんの経歴や出身学校、嫌われていた理由について調べてみました。
出川哲朗は若い頃なぜ嫌われていた?
出川哲朗さんといえば、現在は好感度の高い芸人として幅広い世代から支持を集めていますが、若い頃は「嫌われ芸人」の代表格という不名誉なレッテルを貼られていました。
2000年代初頭には、週刊誌や女性誌の毎年恒例「嫌いな男」「抱かれたくない男」ランキングに度々ランクインし、江頭2:50さんと並ぶ”ワースト常連”として名を連ねていたほどです。
しかし、当時の出川さんにスキャンダルや不祥事といった具体的なトラブルがあったわけではありません。
むしろ、本人のキャラクターや見た目、バラエティ番組での立ち位置が「嫌われキャラ」を形成した要因だったと考えられます。
特徴的なダミ声、低身長、外見に対する揶揄、さらには「リアクション芸」の元祖とも言える泥まみれの体当たり企画など、”ヨゴレ芸人”として位置づけられていたことで、特に女性視聴者から「生理的に受け付けない」と感じられる場面が多かったようです。
また、90年代から2000年代初頭のテレビは、芸人に対する扱いが今よりも遥かに過酷で、”いじり”や”いじめに近い演出”が笑いとして成立していた時代背景も見逃せません。
出川さんも例外ではなく、番組内で罵倒されたり、見た目をネタにされたりする場面が多く、視聴者にネガティブな印象を与えやすい構造になっていたのです。
転機となったのは、2007年に始まった『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)でのレギュラー出演です。
過酷なロケに体を張って挑戦する姿勢や、海外でのコミカルなやり取りが子どもやファミリー層を中心に大きな共感を呼びました。
さらに、2011年からはNHK『大!天才てれびくん』にも出演し、子ども番組での親しみやすいキャラクターが評価されるようになります。
こうして次第に「不快」から「かわいい」「応援したくなる」存在へとイメージが変化していきました。
近年では、ぽっちゃりした体型や素直なリアクション、どこか憎めない性格が”愛され芸人”の魅力として受け入れられ、「理不尽にいじられても怒らない懐の深さ」や「プロとしての仕事ぶり」が再評価されています。
本人の努力、時代の変化、番組演出の変化が重なり、嫌われ芸人から国民的好感度芸人へと大きく転身した代表的な例と言えるでしょう。
出川哲朗のプロフィールや経歴
名前:出川哲朗
生年月日:1964年2月13日
出身地:神奈川県
血液型:B型
身長:160㎝
体重:72㎏
所属事務所:マセキ芸能
出川哲朗さんは1987年、内村光良さん・南原清隆さん・入江雅人さんらとともに演劇ユニット『Project team SHA.LA.LA.』(現・劇団SHA・LA・LA)を立ち上げ、座長として劇団運営にも深く関わりました。
当時は俳優志望で、舞台活動と並行して映画やテレビにも出演。
劇団では演技だけでなく、スケジュール管理やギャラ交渉も担当していたそうで、裏方としての強い責任感もうかがえます。
1986年に映画『君は裸足の神を見たか』でスクリーンデビュー。
その後『男はつらいよ』シリーズ(1986〜1989年)など、多くの映画にエキストラとして出演し経験を積みました。
当初は「バラエティ番組で名前を売れば俳優の仕事にもつながるかもしれない」と考えていたと語り、タレント活動は本人にとって俳優業への布石だったようです。
1990年から、テレビ番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』への出演をきっかけに、タレントとしての露出が本格的に増加。
この番組内の「ジェットコースターに乗ってカンペを読む」という無茶な企画で生まれた「ヤバいよ、ヤバいよ」という名セリフは、リアルな恐怖を感じた出川さんがとっさに発した一言で、後に彼の代名詞となります。
この様子を見た松本人志さん(ダウンタウン)が「本当にヤバい顔をする、すごくいいキャラがいる」と評価したことが、現在の”リアクション芸人”としての地位確立につながりました。
その後『アッコにおまかせ!』『ロンドンハーツ』『ロケみつ』などのバラエティ番組に定期的に出演し、体を張った企画で視聴者の笑いを誘う存在として活躍を続けます。
2014年には地上波初の冠番組『出川哲朗のリアルガチ』が始まり、”出川ブランド”が確立。
さらに2017年には、テレビ東京系のゴールデン帯初となる冠番組『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』がスタート。
電動バイクでの旅番組という新しいスタイルが話題を呼び、出川さんの人懐っこさや誠実な人柄がより多くの視聴者に伝わるようになりました。
こうした活動を通じて、出川哲朗さんは俳優志望だった若き日から、お茶の間で親しまれる国民的タレントへと成長。
地道な努力と時代に合わせて進化する柔軟さが、彼が長年第一線で活躍し続ける理由といえるでしょう。
出川哲朗の同期
出川哲朗さんの芸能界での同期として最初に挙げられるのは、専門学校・横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)の同級生だったウッチャンナンチャンの内村光良さんと南原清隆さんです。
学生時代からの縁を持ち、後に共に「劇団SHA・LA・LA.」を立ち上げ、テレビでも数多く共演するなど、長年にわたる深い親交を続けています。
また、芸人としての”同期世代”には、ダチョウ倶楽部の3人(肥後克広さん、寺門ジモンさん、上島竜兵さん)や、ダウンタウンと同様に1980年代デビューの今田耕司さん、東野幸治さん、板尾創路さん、ほんこんさんらがいます。
彼らは現在のバラエティ界を支える重要なベテランであり、お笑い第3世代と呼ばれる世代を代表する人物たちです。
出川哲朗さんとこれらの同期芸人たちは、それぞれ独自の形でテレビバラエティに貢献してきました。
特に出川さんは、リアクション芸を武器に独自のポジションを確立し、その存在感は群を抜いています。
さらに、ジャンルは異なりますが、人気声優の浪川大輔さんは「出川哲朗さんとは年齢も近く、芸歴もちょうど同じくらい」と語り、”同期意識”を持っていることがわかります(※YouTube「浪川大輔 公式チャンネル」より)。
このように、出川哲朗さんはジャンルを超えた幅広い人脈と長年の活動実績を持つ芸人です。
同期との切磋琢磨があったからこそ、彼独自のキャラクターがより鮮明に光り、現在の地位を築くことができたのでしょう。
出川哲朗の学歴
出川哲朗さんが通っていた学校について調べてみました。
出川哲朗の出身小学校
出川哲朗さんは、横浜市立幸ヶ谷小学校出身です。
小学生の卒業文集での将来の夢は、レーサーでした。
当時の出川哲朗さんは学校で目立つようなことはなく、ガキ大将のゴマをすって気に入られることで周囲に威張っているような子供だったそうですよ。
出川哲朗の出身中学
小学校卒業後は、横浜市立栗田谷中学校に進学しました。
中学時代は水泳部に入部、その理由が「全く泳げなかったから泳げるようになりたかった」からなのだそうです。
出川哲朗は武相高校出身
中学校卒業後は、武相高等学校に進学しました。
こちらの学校の偏差値は、44です。
高校時代は野球部に所属、しかし万年応援部で、試合には一度も出場したことがありません。
スポーツはあまり得意ではなかったものの、成績は良く、クラスで1番だったこともあるそうです。
また高校時代はヤンキーで、当時のあだ名は「キレたナイフ」だったと自称しています。
出川哲朗の出身大学
高校を卒業後は半年ほど板前の修行の準備として、滋賀県大津市大谷にある臨済宗系単立寺院『月心寺』で住み込み生活を送っていた出川哲朗さんですが、「このままの人生でいいのか?」という考えから実家に戻りました。
そして横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)の演劇科に入学しました。
こちらは、1985年11月に日本映画学校(3年制・専門学校)に改称・改組、2011年4月に日本映画大学が発足すると、2013年3月に日本映画学校 映像科を廃止し、日本映画学校は閉校されました。
現在日本では初となる映画学部のみの単科大学になっています。
出川哲朗さんが当時なりたかったのは俳優だったため、有名な俳優を数多く輩出しているこちらに進学することを決めたのだそうですよ。
まとめ
俳優という夢を持ち、芸能界入りしてからも俳優として活動していた時期があった出川哲朗さんですが、お笑いタレントとしての道を歩み始め、今や老若男女問わず親しまれています。
どんな過酷なロケでも身体を張って挑んでいく姿は、これからも多くの人の力になると思います。
今後も出川哲朗さんの活躍を応援していきたいですね。
