洗練されたライフスタイルと美意識で、長年にわたって多くの女性たちから支持されている桐島かれんさん。
モデルやブランドディレクターとして活躍する一方で、学生時代はどんな学校に通っていたのか、意外と知られていない一面かもしれません。
さらに、母親は作家の桐島洋子さん、弟は写真家の桐島ローランドさんといった芸術一家でもあり、その家族構成や関係性も気になるところです。
この記事では、桐島かれんさんの出身高校・大学をはじめ、年収や性格、そして両親・兄弟姉妹にまつわる情報まで、ひとつずつ丁寧にたどっていきます。
桐島かれんの学歴
桐島かれんさんは、子どものころから日本と海外を行き来する生活を送っており、その学歴にもグローバルな一面が見られます。
国際的な教育環境に触れながら培った語学力や柔軟な感性は、後の表現活動やライフスタイルにも深く影響しているようです。
桐島かれんの出身小学校
最初に通っていたのは神奈川県内の公立小学校ですが、小学校6年生のときに父親の仕事の都合でニューヨークへ移住しています。
そのため、小学校は日本とアメリカの2か所で通っていたことになります。
ただし、どちらの学校名も本人からの公表はなく、具体的な校名は不明です。
日本での生活から一転してアメリカの学校に移った経験は、幼少期において強い印象を残したと考えられます。
異文化の中で過ごしたこの時期が、後の国際感覚や価値観の幅広さにつながっている可能性もあります。
桐島かれんの出身中学
小学校卒業後は、ニューヨークの中学校に進学しました。
そして1年生の時に日本に帰国し、サンモール・インターナショナルスクールに転校しています。
こちらはキリスト教系のインターナショナルスクールで、帰国子女や外国籍の生徒も多く、多様な価値観を尊重する校風が特徴です。
桐島かれんさん自身も「インターナショナルスクールの環境は自分に合っていた」と語っており、英語力だけでなく、国際的な視点や表現力もここで育まれたと見られます。
桐島かれんの出身高校
そのままサンモール・インターナショナルスクールの高等部に進学し、高校時代も同校で過ごしています。
高校時代の詳しいエピソードはあまり多くは語られていませんが、感性豊かで個性的なスタイルが際立ち始めたのもこの頃とされています。
芸術やファッションへの関心が深まった時期でもあり、すでに表現者としての素地が芽生えていた可能性があります。
桐島かれんの出身大学
高校卒業後は、上智大学に進学しました。
国際学部は語学や国際関係を中心に学ぶ学部で、当時の偏差値は60前後。
現在の外国語学部の偏差値は63〜68ほどとされ、国内でも難関校の一つです。桐島かれんさんはこの大学を中退し、その後はファッションの道へと進みます。
フランスの名門ファッション校「エスモード・ジャポン」や、イラストレーターやファッション業界人の登竜門として知られる「セツ・モードセミナー」にも入学しましたが、いずれも中退。
本人いわく「型にはまった教育よりも、自分のペースで学ぶほうが合っていた」と感じていたそうです。
こうした柔軟で自由な選択が、後の独自の美意識やスタイル形成につながっていったのかもしれません。
桐島かれんのプロフィールや経歴
名前:桐島かれん
本名:上田渚 (旧姓:桐島)
生年月日:1964年8月20日
出身地:神奈川県
血液型:A型
身長:175cm
所属事務所:株式会社アプレ
桐島かれんさんは、1986年に資生堂のキャンペーンガールとしてモデルデビューを果たしました。
当時、和洋が融合した独特の雰囲気やスラリとした体型、知的でナチュラルな魅力が注目され、多くの広告に起用されるようになりました。
モデルとしての活動は雑誌やCMなど多岐にわたり、ファッション界でも強い存在感を放つ人物として評価されてきました。
1989年には、ロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」の3代目女性ボーカルとして音楽活動をスタート。
バンドの再結成メンバーとしてアルバムやライブにも参加し、アーティスティックな表現力を音楽の世界でも発揮しました。
この頃から「単なるモデル」ではなく、「表現者」としての幅広い才能が認知され始めました。
女優としてもドラマや映画に出演しており、代表作には『愛し方がわからない』(フジテレビ系)、『日本一のカッ飛び男』(日本テレビ系)、映画『妖怪天国 ゴーストヒーロー』などがあります。
女優業では、ミステリアスな存在感やナチュラルな演技が高く評価され、活動の幅をさらに広げていきました。
芸能活動と並行して、ラジオパーソナリティーやナレーションなどの声の仕事でも活躍し、落ち着いた語り口と美しい日本語に定評があります。
2013年には、長年温めてきたライフスタイルへのこだわりを形にすべく、自身のライフスタイルブランド「HOUSE OF LOTUS(ハウス オブ ロータス)」を立ち上げ、クリエイティブディレクターに就任しました。
インテリア雑貨や衣服、工芸品などを扱う同店は、「祈り」「旅」「手仕事」という3つのテーマを軸に、日本や世界各地の手仕事に光を当てるセレクトを展開しています。
オンラインストアや青山の直営店を通じて、暮らしに彩りを添えるアイテムを提案しており、公式サイトやブランドコンセプトからは、桐島さん自身の美意識や生き方がそのまま反映された空間であることが伝わってきます。
このように、桐島かれんさんはモデル・歌手・女優・ナレーター・ブランドディレクターと、多面的なキャリアを歩んできました。
その一貫したテーマには、常に「自分らしく生きる」「美しく暮らす」という芯があり、どの分野でも彼女ならではの感性が光っています。
桐島かれんの年収
桐島かれんさんの年収について、具体的な金額は公表されていません。
芸能人であっても、個人事業主にあたる立場の方が多く、収入の詳細が明らかになるケースは限られています。
特に桐島さんは女優業やテレビ出演などの「メディア露出」で活動しているわけではないため、推定はあくまで一般的な目安の域を出ません。
現在はモデル活動のほか、InstagramやYouTubeといったSNSを通じて情報を発信しており、そのライフスタイルや美意識の高さに多くのフォロワーが注目しています。
企業とのタイアップやプロモーション投稿なども一部確認されており、インフルエンサーとしての価値も十分にあると考えられます。
たとえば、2023年には「ヴァレンティノ」など海外ブランドのPRを手がけた実績もあり、高級ブランドと長年の信頼関係を築いてきたことがうかがえます。
また、2013年に立ち上げたライフスタイルブランド「HOUSE OF LOTUS」のクリエイティブディレクターとしての活動も継続しており、自身が監修するオリジナル商品や国内外のセレクト雑貨、衣服などを展開しています。
青山に実店舗を構え、オンラインショップも運営しているため、商品企画から販売まで一貫した収益モデルを構築していると見られます。
ファッションブランドの運営に関しては、販売規模や客単価によって大きく収入が変動するものの、安定的な売上を維持していることから、一定以上の事業収益があると推測されます。
こうした複数の収入源を総合的に見ると、桐島かれんさんの年収は少なくとも数百万円以上、多く見積もれば1000万円を超える可能性もあります。
ただし、収入の波は活動内容やメディア露出によって変動するため、具体的な数字はあくまで参考程度にとどめておく必要があります。
芸能活動に依存せず、独自の世界観でブランドを確立している点は、他のモデルやタレントとは一線を画しており、年収という数値以上に「持続的に価値を生み出す存在」としての強みを感じさせます。
桐島かれんの性格
桐島かれんさんは、インタビューなどでたびたび語っているように、非常に好奇心旺盛で、新しいものごとに積極的に関心を持つタイプです。
ファッション、アート、インテリア、食、植物、旅といった幅広い分野への探究心が強く、それらを自分のライフスタイルや表現の一部として自然に取り入れています。
2020年の新型コロナウイルスによるステイホーム期間中には、自宅の庭で家庭菜園を始めたり、観葉植物の世話に夢中になったことをSNSや雑誌インタビューで明かしており、日常の小さな喜びを大切にする姿勢がうかがえます。
また、桐島さんは「世話好きな性格」だとも語っており、家族や友人とのつながりを大事にする温かい一面もあります。
娘さんたちとのエピソードを語る場面では、母親としての気配りや思いやりの深さも垣間見え、自然体で人と向き合う姿勢に共感の声が寄せられています。
過去の雑誌『クロワッサン』のインタビューでは、「人の気持ちに寄り添うことの大切さ」をテーマに、自身の価値観や暮らし方について丁寧に語っていた点が印象的です。
ネット上でも、桐島かれんさんに関するネガティブな噂やアンチ的な声はほとんど見られません。
「感じが良い」「落ち着いた雰囲気が素敵」「凛としていて優しそう」といった好意的なコメントが多く見受けられます。
SNS上では、彼女の自然体な投稿や洗練された暮らしぶりに共感するファンも多く、若い世代から年配層まで幅広い支持を集めています。
内面の魅力がそのまま表情や立ち居振る舞いにも現れており、桐島さんが長く多方面で支持され続けている理由は、単に美しさやセンスだけでなく、人柄そのものにあるといえるでしょう。
桐島かれんの父親
桐島かれんさんの父親は、スコットランド系アメリカ人の一般男性で、名前は非公表となっています。
軍歴を持つ人物で、アメリカ海軍の中佐として活躍したほか、世界最深潜水記録を打ち立てた経歴もあるといわれています。
また、ベトナム戦争時には貨物船の船長を務めるなど、国際的かつ専門性の高い仕事に従事してきた方でした。
公式な記録は少ないものの、複数の報道や書籍では、その卓越した経歴が桐島家に大きな影響を与えたことが示唆されています。
家族関係としては、桐島かれんさんの母である桐島洋子さんよりも26歳年上であり、出会った当時はすでに結婚していたことが知られています。
桐島洋子さんは当時の社会的な枠にとらわれず、未婚のまま桐島かれんさんを出産し、シングルマザーとして娘を育てました。
その後、父親は妻と離婚し別の女性と再婚していますが、桐島洋子さんと正式な婚姻関係を結ぶことはありませんでした。
こうした複雑な家庭環境にあっても、桐島かれんさんは母の愛情と教育のもとでのびのびと育ち、父親とも一定の交流があったといわれています。
父方のルーツが欧米にあることや国際的なキャリアを持つ父親の影響もあり、桐島さん自身も早くからグローバルな感覚を身につけました。
これが後の芸能・ファッション・ライフスタイルの分野における多面的な感性の発揮につながったのかもしれません。
桐島かれんの母親は桐島洋子
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— 本屋の本棚 (@honyanohondanaJ) September 25, 2022
桐島かれんさんの母親は、作家・ジャーナリストとして知られる桐島洋子さんです。
女性の生き方や子育て、恋愛観、ライフスタイルに鋭く切り込んだエッセイや評論で注目を集め、1970〜80年代の女性たちから高い支持を得ました。
桐島洋子さんは東京都立日比谷高校を卒業後、文藝春秋新社(現・文藝春秋)に入社。
20歳という若さで『文藝春秋』の記者に抜擢され、当時としては珍しい”若き女性記者”として注目されていました。
その後、桐島かれんさんを妊娠したことを機に退社し、フリーランスのライターとして活動を開始します。
1970年には、自身の妊娠・出産・育児体験を描いた自伝的エッセイ『渚と澪と舵 ふうてんママの手紙』を出版。
続いて1976年に発表した『聡明な女は料理がうまい』は、女性の自立と家庭生活をテーマにしたユニークな視点が共感を呼び、ベストセラーとなりました。
当時の家庭雑誌・婦人誌などでも連載を持ち、時代の空気を的確にとらえる知性派エッセイストとして活躍。
テレビや講演などでも活発に発言を行い、フェミニズムや自己実現に関心を寄せる読者層から熱烈な支持を受けてきました。
プライベートでは、1982年に美術鑑定家でエッセイストの勝見洋一さんと再婚。
しかしこの結婚生活は長くは続かず、2002年に離婚しています。
奔放な生き方と、母としての信念、そして”他人に流されない姿勢”は、桐島かれんさんをはじめとする3人の子どもたちの人格形成にも少なからぬ影響を与えたようです。
2020年には、桐島洋子さん・桐島かれんさん・妹の桐島ノエルさん・兄の桐島ローランドさんの4人による共著『ペガサスの記憶』(KADOKAWA)を出版。
この書籍のなかで、桐島洋子さんが認知症を患っていることが初めて公表されました。
作品は母との記憶をたどるかたちで、家族それぞれの視点から綴られており、親子の絆や記憶のあり方について考えさせられる内容として反響を呼びました。
桐島洋子さんの生き方や発信は、いまなお多くの読者の記憶に残っており、桐島かれんさんが示す美意識や暮らしへのこだわりにも、その影響が色濃く息づいているようです。
桐島かれんの妹は桐島ノエル
桐島かれん×桐島ノエル「母・洋子が認知症に。聡明だった母は自分が自分でなくなる不安に取りつかれ、精神的にもひどい状態だった」(婦人公論.jp) – Yahoo!ニュース – Yahoo!ニュース #認知症 #アルツハイマー https://t.co/fiPs0hNfcy pic.twitter.com/sx5hkvml7E
— 介護🧓👩🦽👩🦰と終活🪦 (@rougo_life) September 16, 2022
桐島かれんさんの妹である桐島ノエルさんは、タレント・翻訳家・ヨガインストラクターとして幅広く活動してきた人物です。
日本と欧米の文化が融合したような感性と、穏やかで知的な語り口が印象的で、かつてはテレビや雑誌でも人気を集めていました。
芸能界デビューは、テレビ朝日系の情報バラエティ番組『OH!エルくらぶ』の司会者としてでした。
番組ではアートやライフスタイル、カルチャーをテーマにしたコーナーが多く、桐島ノエルさんの柔らかな知性と多文化的な視点が視聴者に親しまれていました。
その後もモデル活動やエッセイの執筆、翻訳など多方面で活躍し、穏やかな語りと美しい所作が印象的な存在でした。
1997年には、カナダ・バンクーバーに移住。
結婚と出産を経験し、子育ての中で「心と身体のバランス」に目を向けるようになったことがきっかけで、現地でヨガインストラクターとアロマセラピストの資格を取得しています。
自身のブログやインタビューでは、カナダでの生活が「心を見つめ直すきっかけになった」と語っており、内面の充実を重視するライフスタイルが印象的です。
現在は日本に拠点を戻し、ナチュラルライフに関する講演や執筆、ウェルネス関連のプロデュース活動などを展開しています。
特に、癒やしや美意識をテーマとしたスパやサロンの企画監修を手がけるなど、実践的な知識を活かした仕事ぶりが評価されています。
また、2020年に桐島洋子さん、桐島かれんさん、桐島ローランドさんとの共著『ペガサスの記憶』に参加。
家族との関係や自分自身の内面を綴ったエッセイには、多くの読者から共感の声が寄せられました。
桐島ノエルさんは、一見穏やかでありながら芯のある生き方を貫いており、桐島家らしい自由で柔軟な感性を体現している人物のひとりといえるでしょう。
桐島かれんの弟は桐島ローランド
桐島かれん:認知症になった母・桐島洋子のいまを赤裸々に語る 弟・桐島ローランドと「徹子の部屋」出演 #桐島かれん #桐島ローランド https://t.co/XN7OoRt2Br
— 毎日キレイニュース (@mainichi_kirein) September 27, 2022
桐島かれんさんの弟である桐島ローランドさんは、写真家としてのキャリアを軸に、3DCG・映像制作・テクノロジー領域にまたがるマルチクリエイターです。
日米にルーツを持つ感性と独自の美意識を活かした表現活動で知られています。
桐島ローランドさんは少年時代から芸能活動を始め、13歳のときには舞台ミュージカル『青春のアンデルセン』に出演しました。
幼少期から感性を磨き、10代半ばで写真家のアシスタントとして現場に立ったことをきっかけに、自らもモデルとして活動を開始。
その後はモデル活動と並行して写真の道を深め、1991年から本格的にニューヨークへ渡り、ファッション誌や広告、ポートレートなど多様なジャンルで写真家としてのキャリアを築いていきました。
1993年に活動拠点を東京に移し、以降は日本をベースにしながらも、国内外で撮影・ディレクションを手がける一方で、映像制作やデジタルコンテンツの分野にも活躍の場を広げました。
特に注目されたのが、2014年に設立した3DCGプロダクション「株式会社AVATTA(アヴァッタ)」です。
ここでは、人物や物体を3Dスキャンして再現する「フォトグラメトリー」という先進技術を用い、映画・CM・ゲーム・展示演出などに関わる多様なプロジェクトを展開しています。
現在は、より大規模な総合3DCGスタジオ「CyberHuman Productions(サイバーヒューマン・プロダクションズ)」の取締役も務め、次世代メディアやメタバース関連技術にも積極的に関わっています。
NHKなどのメディアにも取り上げられ、その活動は映像・IT・芸術の垣根を越えて注目を集めています。
一方で、桐島家の一員として、母・桐島洋子さんとの共著『ペガサスの記憶』(2020年)にも参加しました。
母の記憶や家族の関係性をめぐるエッセイでは、写真と言葉の両方で繊細な表現を見せています。
写真家としてだけでなく、家族との関わり方にも誠実な姿勢が感じられ、表現者としての深みがより一層際立っています。
桐島ローランドの嫁はどんな人?子供や自宅・江角マキコとの離婚についても
まとめ
桐島かれんさんは、国際的な教育環境で培った感性と、作家・写真家・タレントといった多彩な家族に囲まれながら、自身もモデルやブランドディレクターとして独自の道を歩んできました。
年収や性格についても、表に出る派手さよりも、丁寧で芯のある暮らしぶりが印象的だったという方も多いのではないでしょうか。
ご両親の生き方や兄弟姉妹のキャリアにも、それぞれのスタイルと価値観が表れており、家族全体で一つの世界観を築いているようにも感じられます。
今後も桐島かれんさんがどのようなかたちで表現の幅を広げていくのか、そして桐島一家それぞれの活動にも注目が集まりそうです。
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