「津軽海峡・冬景色」で日本中にその名を広めた石川さゆりさん。
圧倒的な歌唱力と情感豊かな表現力で、今も多くの人の心を掴み続けていますが、その原点にはどんな家庭や幼少期があったのでしょうか。
熊本の自然に囲まれた土地で育った少女時代、支えてくれたご両親、そして9歳下の弟さんとの家族の絆――どれもが、彼女の人柄や歌の深みに影響を与えています。
たとえば、働き者のお父さん、温かく家庭を守ったお母さん。
そんな日常の中で育まれた“人のぬくもり”が、今の石川さんの歌に宿っているのかもしれません。
この記事では、石川さゆりさんの実家や生い立ち、家族構成をたどりながら、歌の原点にある“優しさと強さ”を紐解いていきます。
石川さゆりの実家は熊本?横浜?
石川さゆり
— KUMAMOTO FIGHT (@KUMAMOTO_FIGHT) March 25, 2022
故郷熊本で50周年記念コンサート
「くまモン」も駆けつけ
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石川さゆりさんの故郷は、熊本県飽託郡飽田村(現・熊本市南区)です。
阿蘇の風が届く田園地帯で幼少期を過ごし、のびやかな自然の中で歌心を育てました。
土地の温かさや人のつながりが、のちの情景豊かな歌世界の原風景になっているのでしょう。
実家の周辺は畑が広がり、家の前にはバス停があったと語られています。
ところが小学5年生のとき、一家は神奈川県横浜市へ転居します。
環境は大きく変わりましたが、石川さんは新しい街でも歌への情熱を失わず、学校生活と稽古を両立。
熊本と横浜という二つの拠点は、石川さんにとって“二つのふるさと”。
熊本の伸びやかな土と、横浜の都会的な風。
本質はどちらも「人の温かさ」で、これが歌に宿るやさしさや芯の強さにつながっていると感じられます。
横浜時代はレッスンやオーディションへのアクセスも良く、音楽活動の基盤づくりが加速。
たとえば発声や言葉の置き方といった基礎の稽古に集中でき、のちの大曲を支える技術が磨かれました。
成長の足取りが、そのままキャリアの助走です。
なお現在の居住や実家の扱いについては、家族の事情に配慮して公には多く語られていません。
ただ、長いキャリアの節目で熊本への感謝をたびたび口にしており、舞台や活動を通じて“ふるさととのつながり”を大切にしている姿勢が伝わってきます。
結論として、出生と原点は熊本、そして思春期以降の生活基盤は横浜。
二つの土地が重なり合って今の石川さゆりさんを形づくり、歌の情景や言葉の温度に息づいていると言えるでしょう。
石川さゆりの生い立ち
子供の頃の石川さゆりって時代を超越した美少女!#波瀾爆笑 pic.twitter.com/BC9kE6gQOu
— kogepanman😂 (@9Kogepanman) June 16, 2019
1958年1月30日、熊本県の穏やかな田園地帯に生まれた石川さゆりさん。
幼い頃は元気いっぱいで、木登りや外遊びが大好きな、まるで男の子のような活発な子どもだったといいます。
けれどその一方で、祖母に抱かれて聴いた子守唄や、お母さんの口ずさむ歌がいつも身近にあり、家庭の中に音楽が自然と流れていました。
小学生になると、「歌手になりたい」という夢を胸に抱きます。
しかし当時の熊本では、芸能界は遠い世界。
身近に歌手を目指す人もおらず、「夢物語だ」と笑われることもありました。
それでも石川さんは諦めず、その思いを静かに自分の中に温め続けます。
家族に打ち明けることも少なかったそうですが、心の中では「いつか必ず舞台に立つ」と決めていたといいます。
そんな石川さんに転機が訪れたのは中学3年生のとき。
友人が出演できなくなった『ちびっ子歌謡大会』に代わりに出場し、その澄んだ歌声が会場を魅了しました。
見事に合格を勝ち取り、その場でホリプロ関係者の目に留まりスカウト。
翌年の1973年、15歳で「かくれんぼ」にてアイドル歌手としてデビューを果たします。
当時の石川さんは、純粋に“歌うことが楽しい”という気持ちでいっぱいだったそうです。
夢を口にすることすら難しかった少女が、自分の歌を全国に届ける存在へ――。
その道のりは決して平坦ではありませんでしたが、幼い頃から抱いていた静かな情熱が、確かに未来を引き寄せたのでしょう。
石川さゆりの父親
石川さゆりさんのお父さんは、石川智(いしかわ さとし)さんです。
熊本市電の運転手として働いており、地元の人たちからも親しまれる誠実な人柄だったといいます。
毎日決まった時間に路面電車を走らせる姿は、地域の風景の一部であり、石川家にとっても誇りでした。
ところが時代の流れとともに市電は廃止され、智さんはその後、バス会社へ転職します。
この転職を機に、家族は熊本を離れて神奈川県横浜市へ移り住むことになりました。
娘のさゆりさんが小学5年生のころのことです。
慣れ親しんだ土地を離れるのは簡単なことではありませんでしたが、家族の生活を守るために仕事を選び直したお父さんの姿は、石川さんにとって“責任と覚悟”を教えてくれた大きな存在だったのでしょう。
また、石川さんが幼い頃から歌を夢見ていたことも、お父さんはしっかりと理解していたようです。
芸能界入りを決めたときには、反対せず静かに見守っていたともいわれます。
どんなときも背中で支えるタイプの父親――その穏やかな人柄と働き者の姿勢は、今の石川さんの芯の強さに通じています。
現在、智さんはすでに他界されていますが、石川さんは折に触れて「父の影響は大きかった」と語っています。
まっすぐに生きる父の姿が、歌に込める誠実さの根っこになっているのかもしれません。
石川さゆりの母親
石川さゆりさんのお母さんは、石川様子(いしかわ ようこ)さんです。
温かく朗らかな人柄で知られ、さゆりさんが幼い頃から家庭を明るく支えてきました。
もともとは、石川さんと弟さんが通っていた幼稚園の保母さんとして働いていた方で、子ども好きで面倒見のよい性格だったといいます。
共働き家庭でありながら、家の中はいつも整っており、冷蔵庫には手作りのおかずがぎっしり。
「石川食堂」と呼ばれるほど食卓が豊かで、どんなに忙しくても“家族がホッとできる場所”を欠かさなかったそうです。
お母さんの料理は味付けだけでなく、愛情のこもり方が違ったのでしょうね。
石川さんはインタビューの中で、「うちの家族は“温かいものは温かく、冷たいものは冷たく食べる”のがモットーでした」と話しています。
小さなことのようですが、その言葉には「丁寧に暮らす」「ひと手間を惜しまない」というお母さんの生き方が表れています。
そんな家庭で育ったからこそ、石川さんの歌にも“人の温もり”が宿っているのかもしれません。
現在は、石川さんが建てた家で、お母さんと娘さんの三世代で暮らしているとのこと。
仕事で忙しい日々の中でも、お母さんの存在は心の支えになっているようです。
時折テレビ出演やインタビューで母への感謝を語る石川さんの表情からも、深い信頼と愛情が伝わってきます。
石川さゆりの兄弟や姉妹
石川さゆりさんには、9歳年下の弟さんがいます。
一般の方のため、名前や職業などの詳細は公表されていませんが、家族の中でもとても仲の良い関係だそうです。
年の離れた兄弟ということもあり、石川さんにとってはまるで“我が子のようにかわいい存在”だったといいます。
幼い頃の石川さんは面倒見のよいお姉さんで、弟さんをおんぶして近所に遊びに出かけるのが日課でした。
けれど、ある日あまりに遊びに夢中になってしまい、弟をおんぶしていたことをすっかり忘れて家に帰ってしまった、という微笑ましいエピソードも残っています。
のちに本人も笑いながらその話を語っており、家族のあたたかい絆が感じられるエピソードです。
弟さんが芸能活動をしていないため、表に出る機会はありませんが、石川さんの活躍を陰で応援し続けているといわれています。
お母さんや娘さんとともに、今も支え合う大切な家族の一員です。
華やかな舞台の裏で、こうした穏やかな家族関係が石川さんの芯の強さを育ててきたのかもしれません。
まとめ
熊本の自然に囲まれた家庭で育った石川さゆりさんは、決して特別な環境ではなく、どこにでもある温かな家族の中から夢をつかみ取りました。
お父さんの誠実さとお母さんの優しさ、そして弟さんとの微笑ましい思い出――そのすべてが、今の石川さんの人柄や歌の深みに結びついています。
ふるさと熊本と、新しい人生が始まった横浜。
その二つの土地で培われた感性が、彼女の歌に“懐かしさ”と“力強さ”を与えているのでしょう。
家族の支えを胸に、半世紀を超えてもなお第一線で歌い続ける姿には、変わらない誠実さと感謝の心が感じられます。
これからも、聴く人の心に寄り添う歌声で、多くの人の人生を彩っていくはずです。
家族とともに歩んできたその温もりが、これからの歌にも優しく息づいていくでしょう。






