1973年にデビューしてから半世紀以上。
今では演歌界の象徴として知られる石川さゆりさんですが、実はスタートは“アイドル歌手”でした。
清楚で可憐なルックスと澄んだ歌声で注目されながらも、すぐに大きなヒットに恵まれたわけではありません。
それでも彼女は歌を諦めず、自分の声と向き合い続けます。
転機となったのは、心を揺さぶる演歌との出会い。
そこで表現の奥深さに気づき、「自分の歌を届けるなら、この道しかない」と覚悟を決めたそうです。
アイドルから演歌歌手へ──その道のりには、少女時代から積み重ねてきた努力と学びがありました。
今回は、そんな石川さゆりさんの歩みをたどりながら、若い頃の素顔や出身校、そして歌手としての軌跡を丁寧に振り返ります。
可愛らしいデビュー期から円熟した今に至るまで、彼女がどのように“日本の歌”を紡いできたのかを見ていきましょう。
石川さゆりは若い頃はアイドルだった!
#石川さゆり
— ナッツ7つ (@ntsu579) November 19, 2021
かくれんぼ/1973
※紅白にデビュー曲、歌ってほしい…無理ですよね😅https://t.co/4YCvar4Mpm pic.twitter.com/DLfqKTGIDe
1月30日は歌手の石川さゆりさんのお誕生日です。ドラマでデビューののち歌手でデビュー。「津軽海峡冬景色」で人気を得る。代表曲は「天城越え」。
— playback-part3 (@1985halfmoon) January 30, 2020
ホリプロでは当初前年デビューの森昌子さんと石川さゆりさん、同年デビューの山口百恵さんとで、”ホリプロ3人娘”として売り出そうとしました。 pic.twitter.com/uJvhor73ns
デビュー当時の石川さゆりさんは、まさに“十代のアイドル”。
1973年3月25日、日本コロムビアからシングル『かくれんぼ』を発表し、華やかなステージに一歩を踏み出しました。
肩書きはアイドル歌手、15歳の透明感ある声がまず評価されます。
とはいえ、のちの演歌の女王というイメージからすると、ちょっと意外に感じる方もいるでしょう。
当時のキャッチフレーズは「コロムビア・プリンセス」。
たとえばポップス寄りの“アイドル歌謡”でテレビや歌番組に登場し、可憐さを前面にしたプロモーションが続きます。
ヘアスタイルも衣装もキラキラで、写真だけを見ると現在の重厚な歌世界とは別の人みたいに見えるほどです。
ただ、同世代には次々とスターが誕生していました。
森昌子さん・山口百恵さんらと並ぶ若手の一角としてイベントに名を連ねる場面もありましたが、思うようなブレイクに届かず、路線の手応えを探る時期が続きます。
人気の波は気まぐれで、デビュー直後は実力よりも“見つかるタイミング”に左右されがち。
焦りよりも「自分の声で何を語るか」を磨く必要が見えてきます。
そこで石川さんは歌い方そのものを見つめ直します。
たとえば発声、言葉の置き方、歌詞の情景をどう立ち上げるか。
アイドルとしての可憐さを残しながらも、より深い情感を込められる土台づくりに舵を切ったのがこの頃です。
結果として、この“アイドル期”は遠回りではありませんでした。
舞台経験やテレビで鍛えた度胸、人前で魅せる所作は後年の大曲を支える大切な資産になります。
若い頃の試行錯誤が、演歌への大転換の足場になったといえるでしょう。
そして数年後、物語を背負う歌と出会い、一気に花開きます。
アイドルから“語り手”へ。
振り返れば、初期の一歩一歩が現在の存在感へまっすぐつながっていると感じられます。
石川さゆりの若い頃がかわいい!
デビュー当時の石川さゆりさんは、まさに“昭和の清純派アイドル”という言葉がぴったりでした。
あどけなさの中に芯の強さがのぞく表情や、笑顔を浮かべたときの優しい目元が印象的で、ステージに立つだけで場の空気が柔らかくなったといわれています。
デビューシングル『かくれんぼ』を歌う姿は可憐そのもの。
衣装も当時流行したリボンやフリルのブラウスなどが多く、見る人の心をふっと和ませる雰囲気をまとっていました。
初めてのピクチャーレコードゲットして嬉しい💕若い頃の石川さゆりさん可愛すぎて盤面眺めただけで大満足!今月爆買いしすぎちゃってお小遣い使い切りました😂 pic.twitter.com/YUBiLNCz5M
— マルコ (@marumaruko0o) July 14, 2021
今でこそ演歌の大御所だが、若い頃の石川さゆりは、本当に可愛かった。
— コルベット (@OMKfGbfaSE4ikUy) October 30, 2022
僕はファンクラブに入っていて、握手もしてもらった。
若い日の思い出だ。 pic.twitter.com/JU7D8iK8VI
石川さゆりさんの若い頃…
— いちこ💐 (@caramelchoco15) December 9, 2019
確かに大島優子ちゃんや!!#鶴瓶の家族に乾杯 pic.twitter.com/BnAyMRFFyE
若い頃の石川さゆりは萌えキャラ。 pic.twitter.com/6CLWD6Gxkz
— FATSOUL DT (@FATSOULDT) April 17, 2022
実際に当時の写真を見た人のあいだでは、「まるで現在の女優さんのよう」「清楚で上品」といった声が多く寄せられています。
とくにSNSでは「大島優子さんに似ている」「目元の柔らかさがそっくり」と話題になることもあり、時代を超えて“かわいい”と感じる魅力が色あせないことがよくわかります。
また、撮影の合間にも周囲に丁寧に挨拶する姿や、歌の練習を欠かさなかったというエピソードも残っています。
表情の可愛らしさだけでなく、まじめで一生懸命な人柄がにじみ出ていたからこそ、多くのファンが心をつかまれたのでしょう。
今では大人の女性としての艶やかさや気品が際立つ石川さんですが、その土台には、10代の頃に見せた素直で無垢な笑顔があります。
若い頃の写真を眺めると、時を経ても変わらない“石川さゆりさんらしさ”が感じられますね。
石川さゆりのプロフィールや経歴
【特集】石川さゆり「X -Cross Ⅳ-」インタビュー&参加者コメント
— 音楽ナタリー (@natalie_mu) June 1, 2022
音楽生活50周年!日本を代表する歌手が挑戦し続ける理由https://t.co/0l1CVQTCZH#石川さゆり #NARGO #谷中敦 #阿木燿子 #宇崎竜童 #亀田誠治 #布袋寅泰 #加藤登紀子 #神津善行 pic.twitter.com/WqENVbxPtI
名前:石川さゆり
生年月日:1958年1月30日
出身地:熊本県
血液型:A型
身長:155cm
所属事務所:さゆり音楽舎
石川さゆりさんの人生は、幼い頃に感じた一つの感動から始まりました。
祖母やお母さんの影響で歌に親しんでいた小学生の頃、地元で開催された島倉千代子さんの歌謡ショーを見て心を奪われ、「私も人の心を動かせる歌を歌いたい」と夢を抱くようになります。
まだ小学3年生の少女にとって、それは人生を変えるほどの出会いでした。
その後、1972年、友人の代わりに参加した『ちびっ子歌謡大会』で見事合格。
そこでホリプロ関係者の目に留まり、スカウトを受けて芸能界入りを果たします。
同年には連続ドラマ『光る海』にレギュラー出演し、演技にも挑戦。
翌年には「かくれんぼ」で歌手デビューを果たし、夢見たステージに立ちました。
しかし、当初はアイドル歌手としての活動が中心で、思うようなヒットには恵まれませんでした。
そんな時に出会ったのが、二葉百合子さんの名曲『岸壁の母』。
その圧倒的な歌唱と情感に衝撃を受け、「自分も心を揺さぶる歌を歌いたい」と決意します。
そして自ら二葉さんのもとを訪ね、「浪曲を教えてください」と頭を下げ、基礎から発声や表現を学び直しました。
この時期の修行が、のちの演歌人生の礎になります。
そして1977年、『津軽海峡・冬景色』で一気に開花。
前作アルバム『365日恋もよう』からのシングルカットという形でしたが、その圧倒的な歌唱力と情景描写が評価され、第19回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。
NHK紅白歌合戦にも初出場を果たし、一躍国民的歌手の仲間入りを果たします。
1980年代以降も、「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」など、名曲を次々と生み出し、歌謡界のトップを走り続けました。
どの曲にも“情”と“品”があり、聴く人の心に物語を残すのが石川さんの真骨頂です。
近年もその評価は高く、2015年には日本作曲家協会奨励賞、2018年には芸術選奨文部科学大臣賞、2019年には紫綬褒章を受章。
歌手としてだけでなく、文化人としての存在感を確かなものにしています。
そして2017年には紅白出場40回を達成。
紅組歌手として史上初の快挙でした。
デビューから半世紀を超えた今も、石川さんの歌声には“物語を語る力”があります。
若き日の挑戦、苦悩、学びの積み重ねが、今の円熟した歌世界をつくり上げているのです。
石川さゆりの本名
石川さゆりさんの本名は「石川絹代(いしかわ きぬよ)」さん。
芸名「さゆり」は、1972年に出演したドラマ『光る海』の制作スタッフによって贈られた名前です。
名付け親であるプロデューサーの岡田太郎さんは、「いつまでも美しく、清らかで、芯のある女性であってほしい」という願いを込めて「さゆり」と名づけたといわれています。
“絹代”という本名もやわらかく上品な響きを持っていますが、「さゆり」という芸名は、石川さんの透明感と奥ゆかしさをより引き立てるものでした。
芸能界に入ったばかりの頃、15歳という若さで新しい名前を授かるというのは大きな出来事。
芸名には「新しい人生の幕開け」という意味合いもあり、石川さんにとって特別なスタートラインになりました。
その後、“石川さゆり”という名は演歌の象徴ともいえる存在に。
『津軽海峡・冬景色』や『天城越え』といった名曲が世代を超えて歌い継がれ、今では「この名前を知らない日本人はいない」といっても過言ではありません。
芸名の響きがもたらす柔らかさと、本人が積み重ねてきた強さ。
その二つが重なって、唯一無二の“石川さゆり”というブランドをつくり上げたのでしょう。
石川さゆりの所属事務所
石川さゆりさんが現在所属しているのは、自身が代表を務める「さゆり音楽舎」です。
1997年に独立して設立した事務所で、長年の経験と信念をもとに、自らの音楽活動をより自由に展開できる環境を整えました。
歌手としての表現だけでなく、作品の方向性や舞台づくりにも深く関わりたいという思いからの決断だったといわれています。
デビュー当時は大手芸能事務所「ホリプロ」に所属しており、アイドル歌手としての基礎を築いたのもこの時期でした。
テレビや映画、歌番組などで幅広く活動しながら、少しずつ“歌で生きていく覚悟”を固めていった石川さん。
独立は決して軽い決断ではありませんでしたが、自らの音楽を丁寧に守り育てるために選んだ道でした。
「さゆり音楽舎」では、ライブ企画やレコーディング制作、アーティストマネジメントなどを一貫して行っており、石川さんの音楽活動の中枢として機能しています。
事務所名に自分の名を冠したのは、「責任を持って、最後まで自分の歌を届けたい」という強い意志の表れ。
演歌界の第一線で活躍しながら、ひとりの表現者としての自立を貫いてきた姿勢には、多くの後輩アーティストが影響を受けています。
芸能界では大手に属する安心感を選ぶ人も多い中で、石川さんはあえて“自分の信じる道”を歩むことを選びました。
その結果、音楽もステージも、どこか石川さんらしいあたたかさと品格に包まれています。
石川さゆりの年収
石川さゆりさんの年収は正式には公表されていませんが、長年の活動実績や音楽業界での影響力を踏まえると、相当な額にのぼると考えられます。
1977年の『津軽海峡・冬景色』の大ヒット以降、石川さんは演歌界の第一線で活躍を続け、コンサートツアー・音楽番組・CM出演・音源配信など多岐にわたる収入源を確立してきました。
紅白歌合戦や大型音楽特番への出演も多く、安定した人気とブランド力が長く維持されています。
とくに演歌歌手の中でも石川さんのステージは高い集客力を誇り、全国ツアーは毎回ほぼ満席。
チケット収益やグッズ販売、CD・配信売上などを含めると、年間の活動規模は数億円単位になることも十分あり得ます。
また、独立後は「さゆり音楽舎」を自ら経営しており、マネジメントや著作権管理の一部も自社で行っているため、一般的な所属タレントよりも手元に残る割合が高いと見られます。
ただ、石川さん自身は華やかな生活よりも「歌をどう届けるか」に重きを置くタイプ。
テレビ番組などでも、「お金のためではなく、歌を聴いてもらえる場所があることが幸せ」と語る場面がありました。
そうした姿勢がファンの信頼を集め、長く愛され続ける理由でもあります。
現在もなおステージに立ち続ける石川さゆりさん。
その活動規模と影響力を考えると、年収は推定で1億〜数億円規模と考えられます。
数字以上に価値があるのは、50年以上変わらず歌を届け続けるその存在感そのものでしょう。
石川さゆりの学歴
石川さゆりさんが通っていた学校について調べてみました。
歌の道を志した背景には、学校生活の積み重ねがあります。
小学校・中学校・高校、それぞれの時期にどんな経験を重ねたのかを順に振り返ります。
石川さゆりの出身小学校
石川さゆりさんは、飽田村立飽田東小学校(現:熊本市立飽田東小学校)に入学しました。
自然の近さや地域のつながりに育まれ、のびやかに歌心を育てた時期です。
やがて小学5年生で神奈川へ転居し、横浜市立城郷小学校へ転校。
環境が変わっても歌への思いは変わらず、むしろ「基礎を学びたい」という気持ちが強まっていきます。
この頃から本格的に稽古を始めますが、レッスン代は自分で工面。
両親に負担をかけないよう、早朝の牛乳配達のアルバイトで費用を捻出していました。
小学生ながら計画性と行動力が光りますね。
ちなみに新聞配達ではなく牛乳配達を選んだのは、日曜が休みでレッスンに集中できたから。
学業・稽古・体力のバランスを意識した、賢い選択だったのでしょう。
レッスン料は月5,000円、当初のバイト代は3,000円。
そこで配達本数を増やして報酬を引き上げ、必要額に届かせたと語られます。
小さな工夫の積み重ねが、のちの大きな飛躍の土台になりました。
石川さゆりの出身中学
小学校卒業後は、横浜市立城郷中学校に進学しました。
思春期を迎えるこの頃も、歌への情熱は少しも冷めることがありませんでした。
朝は牛乳配達、放課後は歌のレッスンという生活を続け、学業と夢を両立させていたといいます。
周囲の友人が部活動や遊びに時間を使うなか、石川さんは毎日コツコツと努力を積み重ねていました。
中学生でありながら、自分の力でレッスン代を稼ぎ、歌の世界で生きる準備を進めていたその姿勢には、すでに大人顔負けの覚悟が感じられます。
そして中学3年生の時、人生を大きく動かすチャンスが訪れます。
友人の代わりに出場した『ちびっ子歌謡大会』でその歌声が注目を集め、見事合格。
さらに芸能事務所からスカウトを受け、ついに芸能界入りを果たします。
この時の経験が、後の長いキャリアの原点に。
地道な努力と小さなチャンスを逃さない姿勢が、未来の“演歌の女王”をつくり上げたのです。
石川さゆりの出身高校
中学校を卒業した石川さゆりさんは、芸能活動と学業の両立を目指し堀越高等学校へ進学しました。
芸能人の登竜門として知られる学校で、石川さんは芸能活動コース(現・トレイトコース)に在籍していました。
偏差値は37前後とされていますが、学力よりもプロとしての活動をサポートする環境が整っており、多くの若手スターが通っていたことでも知られています。
デビュー間もない頃の石川さんは、まだ10代ながら仕事と勉強を両立する日々。撮影や歌番組の収録で多忙な中でも、通学を欠かさず続けたそうです。
クラスメイトには同世代の人気タレントも多く、互いに刺激を受けながら成長していきました。
そして高校生活の集大成ともいえる時期に、転機が訪れます。
1977年、前年に発売されたアルバム『365日恋もよう』からシングルカットされた「津軽海峡・冬景色」が大ヒット。
全国的なブームとなり、石川さんは一気に国民的歌手の仲間入りを果たします。
ただ、その年はちょうど高校卒業前。
多忙のあまり単位が足りなくなってしまい、「先生、絶対にヒット曲を出して紅白に出ますから、単位をください」と直談判したという逸話が残っています。
この言葉どおり、『津軽海峡・冬景色』は見事に紅白出場を果たし、彼女の情熱と有言実行ぶりを象徴する出来事となりました。
堀越高校時代の努力と根性、そして人とのつながりが、のちの石川さんの大きな支えとなります。
夢を叶えるために走り抜けた青春の3年間は、今でもファンの間で語り継がれるエピソードです。
石川さゆりの出身大学
高校卒業後の石川さゆりさんは、大学へは進学せず、芸能活動一本に専念する道を選びました。
1970年代当時は、今ほど芸能人が大学に進学するケースが多くなく、仕事と学業を両立する環境も整っていませんでした。
そんな中で、すでに『津軽海峡・冬景色』のヒットによって全国的に名を知られる存在となっていた石川さんにとって、音楽の世界で生きていく決意は自然な流れだったのでしょう。
高校卒業の頃にはすでに歌番組や公演が連日続くほどの忙しさで、勉強よりも実践の場で成長する時期に入っていました。
大学で学ぶ代わりに、先輩歌手や作曲家、舞台スタッフたちとの関わりを通じて“歌の現場”から多くを吸収。
石川さんにとっての大学は、まさに日本全国のステージそのものでした。
また、歌の世界を極めたいという気持ちは早くから明確で、「自分の歌を自分の声で届けたい」という信念が、進学よりも活動を選ばせたともいわれます。
学問の道ではなく“歌の道”を選んだその決断が、のちに半世紀以上続くキャリアへとつながっていったのです。
まとめ
幼い頃に芽生えた歌への憧れは、アイドル期の試行錯誤や浪曲で鍛えた基礎を経て、やがて演歌の大輪へと育ちました。
『津軽海峡・冬景色』で世に広く名を刻み、『天城越え』など名曲を重ねても、探求心と丁寧な歌心は変わらず。
熊本と横浜での学び、堀越高校での両立、独立後のものづくりまで、積み重ねのすべてが今の歌声につながっています。
時代が移り変わっても、物語を運ぶその声は聴く人の記憶に残りますね。
気になる方は代表曲を聴き比べたり、若い頃の映像と現在のステージを並べて味わってみてください。次の一曲にも、きっと新しい発見が待っています。






