個性的な表現と芯のある言葉で注目を集める内田也哉子さん。
女優の樹木希林さんとロック歌手の内田裕也さんという、強烈な個性を持つ両親のもとに生まれ、その生き方や家族との関係性にも大きな関心が寄せられています。
特に話題になったのは、両親の葬儀で語った弔辞や喪主としての姿。
あの場面に、胸を打たれた方も多いのではないでしょうか。
本記事では、両親との関係性や家庭での出来事、内田也哉子さんの知られざる生い立ちについて丁寧にご紹介します。
ちょっと変わった家族の形や、そこから見えてくる内田さんの人柄にもぜひご注目ください。
内田也哉子の母親は樹木希林
『hon- nin』の樹木希林インタビュー、こんな楽しそうな顔で話してくれてたんだなー。 pic.twitter.com/IeE2F9UrWz
— 吉田光雄 (@WORLDJAPAN) September 22, 2018
内田也哉子さんの母親は、唯一無二の存在感で日本の芸能界に確かな足跡を残した名女優・樹木希林さんです。
圧倒的な個性と独自の美学で、世代を問わず多くの人々の記憶に残る存在となっています。
樹木希林さんは1961年、文学座付属の演劇研究所に一期生として入所。
当初は「悠木千帆」という芸名で活動を始め、舞台を中心に女優としてのキャリアを築いていきました。
1966年に文学座を退団したのち、芸名を「樹木希林」に改め、本格的にテレビドラマや映画の世界へと活躍の場を広げていきます。
ドラマ『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』などで見せたコミカルな演技から、晩年の映画『万引き家族』『あん』での深みのある演技まで、幅広いジャンルで活躍。
その功績は高く評価されており、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞や報知映画賞主演女優賞など、数々の映画賞に輝いています。
一方、家庭では母としても独特の存在感を放っていたようです。
内田也哉子さんは、あるインタビューの中で「母はものすごく強くて、私にとっては絶対的な存在だった」と語っており、その言葉からは、並外れた精神力と個性に満ちた母娘関係がうかがえます。
希林さんは、内田さんに対して時に厳しく、しかし愛情深く向き合っていたようで、その育て方には一種の哲学すら感じられますよね。
また、希林さんは晩年、病気と向き合いながらも自然体を貫き、多くの人に生き方そのものを通じてメッセージを届けました。
メディアではあまり語られなかった部分も含め、その生きざまは家族や周囲に大きな影響を与えていたことが伺えます。
そんな母のもとで育った内田也哉子さんの言葉や表現には、樹木希林さん譲りの芯の強さや価値観が色濃くにじみ出ています。
樹木さんの存在が、表現者としての内田さんの感性をどれだけ育んだのか、想像するだけでも深いものがありますね。
樹木希林の葬儀で内田也哉子の喪主挨拶が話題
#樹木希林 さん告別式 内田也哉子の喪主代理挨拶全文掲載https://t.co/O9TedAmJ0V
— NEWSポストセブン (@news_postseven) October 6, 2018
喪主である夫・内田裕也は、車椅子に乗って参列したが、この日、一言も発することはなかった。そして、喪主に代わって挨拶をしたのが、娘の内田也哉子だった。ここでは、也哉子の喪主代理挨拶を全文掲載する──。 pic.twitter.com/T7OnG298Hs
2018年9月15日、日本を代表する名女優・樹木希林さんが75歳でこの世を去りました。
唯一無二の存在感と、人生そのものを貫いた姿勢は、多くの人の心に深い印象を残しています。
葬儀は、東京都港区南麻布にある光林寺にて執り行われました。
喪主を務めたのは夫の内田裕也さん。
ただし、当時すでに高齢で車椅子を利用されていたこともあり、実質的な式の進行や弔辞は、娘の内田也哉子さんが担う形となりました。
式中、静かな場内に響いた内田也哉子さんの挨拶は、多くの参列者の胸を打ったと言われています。
中でも、「私が唯一親孝行できたとすれば、本木さんと結婚したことかもしれません」という言葉は、深い愛情と家族への感謝が滲み出ており、多方面で話題になりました。
この発言には、内田家特有のユニークで自由な家族観が垣間見える気がしますよね。
母・樹木希林さんと父・内田裕也さん、そして夫である俳優・本木雅弘さんという、個性派ぞろいの家族に囲まれながらも、内田さん自身が“橋渡し”としての役割を果たしてきたことが感じ取れる瞬間でした。
また、挨拶の内容は決して型通りの形式ではなく、心の奥から湧き出るような言葉で紡がれていたため、弔辞というより一つの「人生の語り」にも似た印象を受けた方も多かったのではないでしょうか。
葬儀後、報道各社も内田也哉子さんの喪主挨拶を大きく取り上げ、SNS上では「言葉が美しい」「心に沁みた」といった感想が相次ぎました。
一方で、過去に母子関係が決して平坦ではなかったこともインタビューなどで明かされており、その背景を知ると、あの挨拶の重みが一層伝わってきます。
単なる著名人の喪主挨拶という枠を超え、言葉のひとつひとつが家族の記憶や葛藤、生き方そのものを語っていた――そんな印象を抱いた方も少なくないはずです。
内田也哉子さんの語りからは、母への敬意と愛情、そして深い人生観が感じられます。
内田也哉子の父親は内田裕也
rock 'n' roll 内田裕也氏も都議会来てたな🏃 NHKも内田裕也氏にインタビューすればえぇのに🎙 pic.twitter.com/uVlDB8tAcW
— 理事長 (@MadmaxWildspeed) June 8, 2016
内田也哉子さんの父親は、日本のロック界をけん引してきた伝説的なミュージシャン・内田裕也さんです。
破天荒な言動と独自の美学を貫いた生き方は、多くの人に強烈な印象を残していますよね。
内田裕也さんが音楽活動を本格的にスタートさせたのは1959年のこと。
若者文化が勢いづいていた当時、日劇ウエスタンカーニバルという舞台で注目を集め、一躍ロック界の注目株となりました。
その後、「内田裕也とザ・フラワーズ」のボーカルとして活動し、さらに伝説のバンド「フラワー・トラベリン・バンド」のプロデューサーとしても活躍。
日本の音楽シーンに“ロック”という概念を根付かせた立役者のひとりといわれています。
1970年代後半からは俳優としても活動を始め、映画やテレビドラマで個性派俳優として異彩を放つ存在に。
音楽だけにとどまらず、多方面での発言や活動は常に話題を呼び、その影響力は長きにわたり続きました。
そんな内田裕也さんですが、家庭では必ずしも典型的な“父親像”ではなかったようです。
娘の内田也哉子さんは、自身が幼い頃から両親が別居していたことを明かしており、「父と会うのは年に1〜2回程度だった」と語っています。
家庭での日常よりも、世間に見せる“ロックな生き様”の印象が強かったのかもしれませんね。
また、あるインタビューでは、「会う時はいつも怒っているか、酔っているか、誰かと議論しているか。
だから“怖い”というイメージが染みついていた」と語っており、父との距離感には複雑な思いがあったこともうかがえます。
とはいえ、その“異質な父”から受けた影響もまた、内田也哉子さんの独自の感性や言葉の力に繋がっているのではないでしょうか。
内田裕也さんの型破りな生き方が、逆に娘の中で「自分とは何か」を問う機会となり、感受性を育てる土壌になったのかもしれません。
表現者としての父と、内面世界を深く掘り下げる娘。
ふたりの人生は対照的でありながらも、どこか通じ合っているような印象も受けますよね。
時に不器用で、でも本気で生きた父・内田裕也さんの姿は、今もなお多くの人の記憶に強く刻まれています。
内田裕也の葬儀の内田也哉子の弔事が話題
内田裕也さんのロックンロール葬での内田也哉子さんの謝辞が
— yas (@yas70437766) April 3, 2019
感情と才能が溢れて溢れてで
読んでいて引き込まれてしまった pic.twitter.com/71ucGj1sPV
2019年3月17日、日本のロック界に大きな足跡を残した内田裕也さんが79歳で亡くなりました。
型破りで独自の信念を貫いた生きざまは多くの人々に衝撃と感動を与え、最後まで「ロックンロール」を貫いた人物として語り継がれています。
葬儀は東京都港区の青山葬儀所で執り行われ、「ロックンロール葬」と題されたお別れの会には、芸能関係者や音楽関係者をはじめ、多くの著名人やファンが集まりました。
その場で喪主を務めたのが娘の内田也哉子さん。遺族代表として語った弔辞が、大きな反響を呼ぶこととなりました。
内田也哉子さんは、父・内田裕也さんへの想いを、自身の言葉で静かに、しかし力強く伝えました。
葬儀の翌日には、「言葉に込められた深い感情が胸に刺さった」「涙が止まらなかった」といった声がSNSやネットメディアで多数寄せられ、感動の輪が広がっていったのです。
特に印象的だったのは、「理解し合えないことだらけだった父を、ようやく理解しようとしている自分がいる」というような主旨の発言。
長年にわたり距離があった父娘関係を、今もなお模索しているような率直な語りが、多くの人の心を打ちました。
過去のインタビューでも、内田也哉子さんは父・内田裕也さんについて「圧倒的な存在だったが、どう向き合えばよいか分からなかった時期もあった」と語っていたことがあります。
その複雑な思いを受け止めつつ、最期の別れの場で、感謝と敬意をにじませた姿は、参列者の心にも深く残ったのではないでしょうか。
また、式全体も「ロックンロール葬」の名にふさわしく、形式にとらわれず自由なスタイルで行われました。
遺影にはサングラス姿の裕也さんが選ばれ、会場にはロックミュージックが流れるなど、本人の生き方そのものを表現した演出が随所に見られました。
そうした中で、也哉子さんの弔辞は、ただの“喪主としての挨拶”ではなく、一人の娘としての心からの言葉として強く響いたのです。
内田裕也さんが残したものは、音楽や言葉だけでなく、「信念を持って生きる姿勢」だったのかもしれません。
そして、その想いをしっかりと受け継ごうとする内田也哉子さんの姿もまた、多くの人の記憶に刻まれています。
内田也哉子の生い立ちがやばい?
1976年2月11日に誕生した内田也哉子さんは、幼い頃から樹木希林さんと二人で生活していました。
家での食事は極めて質素で一汁一菜とお漬物、分厚い木の蓋を載せた鉄釜で玄米を炊くという日本昔話のような生活で、子供の頃おもちゃを買ってもらったこともなく、服もいつもお下がりだったため、内田也哉子さんは「うちは貧乏なんだ」と思っていたそうです。
しかし中学生に入る頃にたまたまとヨウジヤマモトの店の前を通りかかった時、樹木希林さんは内田也哉子さんに「あなたも黒いスーツを持っていたほうがいいわね」と言い、初めてブランド店に入った内田也哉子さんが目移りしていると全部買ってくれたのでした。
この時、樹木希林さんがお財布からお札を出すのを見て、「うちは貧乏だったわけじゃないんだ」と初めて知ったと明かしています。
そんな内田也哉子さんは幼稚園に入る頃、内田裕也さんが一方的に離婚届を提出したことで樹木希林さんは裁判を起こし、マスコミの人が自宅に押し掛けてきて大騒ぎになりました。
このことがきっかけで近所の幼稚園から入園を断られ、インターナショナルスクールに通うことになりました。
そして内田也哉子さんは両親のことは絶対に明かさず、匿名性を守りながら生きていたそうです。
まとめ
お母さんが女優、お父さんがミュージシャンという環境で育った内田也哉子さんは、決して「芸能人の子供だから」と甘やかされた生活を送っていたわけではありません。
偉大だった両親は空の上に旅立ってしまいましたが、これからも内田也哉子さんらしく、前を向いて歩んでいってほしいと思います。



