千玄室さんは、1964年に裏千家第15代家元に就任し、半世紀以上にわたって茶道界の発展と国際交流に尽力してきました。
戦時中は元特攻隊員としての過酷な経験を乗り越え、戦後は「一碗からピースフルネスを」の理念を掲げて、世界各国で茶道を通じた平和活動を続けてきた人物です。
2025年8月14日、102歳で静かに生涯を閉じ、その功績と人柄に多くの追悼の声が寄せられています。
今回は、千玄室さんの読み方や本名、名前に込められた由来とともに、歩んできた人生の背景をたどります。
千玄室(15代)の読み方や本名
千玄室さんの名前は「せん げんしつ」と読みます。
「玄室」という号は、裏千家の歴代家元が大切に受け継いできたもので、もともとは4代目の仙叟宗室が家元になる前に名乗っていた名前です。
その後、12代の直叟宗室が隠居したときにも使われ、この由来から千玄室さんにも受け継がれました。
こうした号には、茶道の精神や家の歴史がぎゅっと詰まっています。
本名は「千政興(せん まさおき)」さん。
京都に生まれ、千家の血筋に連なる方で、戦時中は海軍航空隊の特攻隊員として過酷な日々を送りました。
戦後は世界各地で茶道の魅力を伝え、国際交流にも力を注がれました。
そして2025年8月14日、102歳でその生涯を閉じられました。
長い人生の中で背負ってきた「千玄室」という名は、これからも茶道の歴史とともに語り継がれていくことでしょう。
千玄室(15代)のプロフィールや経歴
やさしいにほんごでニュースをつたえています。
— NHKニュース (@nhk_news) April 21, 2023
「茶道の千玄室さん 100歳の誕生日にお茶をいれる式を行う」#NEWSWEBEASY
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名前:千玄室
生年月日:1923年4月19日
出身地:京都府
血液型:非公開
身長:175cm
千玄室さんは、裏千家14代家元・碩叟宗室(せきそう そうしつ)さんの長男として京都に生まれました。
同志社大学を卒業後、さらに視野を広げるためハワイ大学へ留学し、国際的な感覚を養いました。
1959年には日本青年会議所の会頭に就任し、若くしてリーダーシップを発揮しています。
1964年、お父さんの逝去に伴い、茶道裏千家今日庵の15代家元宗室を襲名。
これは千利休居士から数えて15代目という重責を担う瞬間でもありました。
その後も学びを続け、1991年には中国・南開大学で哲学博士号を取得、1993年には立命館大学の客員教授となり、教育や研究にも力を注ぎました。
2002年12月、長男の千宗室さんに家元を継承すると、自身は「玄室」に改名。
以降も文化活動の第一線に立ち続け、2006年には源氏物語千年紀の呼びかけ人として日本文化の魅力発信に尽力し、2008年には韓国の中央大学校で文学博士号を授与されました。
2012年3月にはユネスコ親善大使に任命され、2017年には2025年国際博覧会(大阪・関西万博)の誘致特使を務めるなど、晩年まで精力的に活動されています。
これまでに京都市文化功労者、京都府文化賞功労賞、京都市国際交流賞、そして茶道界として初となる文化勲章の受章をはじめ、フランス政府からレジオンドヌール勲章コマンドゥール章を授与されるなど、その功績は国内外で高く評価されました。
2025年8月14日、102歳で亡くなられるまで、その歩みは茶道の発展と国際交流に深く結びついており、日本文化の顔として世界中の人々に影響を与え続けた存在でした。
千玄室(15代)は元海軍の特攻隊だった
1943年、千玄室さんは同志社大学在学中に学徒出陣で日本海軍の航空隊に徴兵され、舞鶴海兵団を経て海軍航空隊のパイロットとなりました。
戦争末期には、連合国海軍の艦艇を攻撃する特別攻撃隊(特攻隊)に配属されましたが、実際に出撃する前に終戦を迎えています。
特攻隊として命を懸ける覚悟を持ちながらも、生きて戦後の日本に戻った経験は、その後の茶道普及や平和活動の原点にもなりました。
俳優の西村晃が戦友だった
徹子の部屋 千玄室
— 香織ちゃん (@DDnagaoka622) April 26, 2023
テレビ朝日 4月27日(木) 13:00 – 13:30
同志社時代に学徒出陣
徳島海軍航空隊では、名優・西村晃さんと
同期だった。
前列中央 西村
後列右 千 pic.twitter.com/5bqBpX34aZ
海軍時代、千玄室さんは同い年で俳優・声優として活躍した西村晃さんと舞鶴海兵団で同期として訓練を受けました。
特攻隊編成後も同じ隊に所属し、徳島海軍航空隊から串良海軍航空基地へ移動する前日には、飛行訓練を終えた仲間5人と配給の羊羹や持参の茶道具で即席の茶会を開いたという心温まるエピソードが残っています。
終戦直前、千玄室さんが鹿屋基地から松山基地への転属命令を受け、西村さんとは別れることになりますが、戦後も交流は続きました。
1997年に西村さんが亡くなった際には、生前に交わした「どちらかが先に亡くなった場合、残った方が葬儀委員長を務める」という約束を守り、千玄室さんが葬儀委員長を務めています。
戦友としての深い信頼と絆を感じさせる出来事です。
千玄室(15代)は馬術でもすごかった!
千玄室さんの趣味の一つが乗馬です。
8歳のとき、初めて馬にまたがった際は「なぜ馬なんかに乗らなければならないのか」と戸惑ったそうですが、何度も接するうちにその魅力に引き込まれ、生涯にわたって愛好するようになりました。
単なる趣味にとどまらず、日本馬術連盟の会長を長年務め、国際的にもアジア馬術連盟名誉会長に就任するなど、馬術の普及と発展に尽力しています。
馬術競技は茶道と同じく、姿勢・所作・呼吸の調和が求められる世界であり、千玄室さんはそこに通じる精神性を見出していたといいます。
国内外で開催される馬術大会や関連イベントにも積極的に参加し、若手選手の育成や競技環境の向上にも力を注ぎました。
その活動は、文化人としての顔に加え、スポーツ振興にも貢献する多面的な功績の一つとして高く評価されています。
こうした歩みは、千玄室さんが茶道に限らず日本文化全体を広い視野でとらえ、その価値を次世代へとつなぐ姿勢を物語っています。
千玄室(15代)の学歴
千玄室さんが通っていた学校について調べてみました。
千玄室(15代)の出身小学校
千玄室さんは、京都府師範学校附属小学校出身です。
こちらの学校は、第二次世界大戦後の学制改革で新制京都学芸大学(現・京都教育大学)の母体の一つになりました。
千玄室(15代)の出身中学
小学校卒業後は、同志社中学(現・同志社中学校)に進学しました。
現在は京都府京都市左京区にありますが、千玄室さんが通っていた頃は京都市上京区今出川通烏丸にありました。
千玄室さんは周囲と同じ京都府立第一中学校に進みたかったものの、お父さんから自身の母校である同志社に進学するように言われたのだそうです。
中学時代は、学校では賛美歌を歌ってキリスト教を学び、家ではお経を唱えてお社にお参りするという日々を送っていました。
2年生からは乗馬クラブ「銀鞍会」に入り、学校が終わるとクラブに行き、愛馬と過ごしていました。
千玄室(15代)の出身高校
千玄室さんの時代は、旧制中学校(5年制)制度というものがありました。
そのため千玄室さんは現代でいう「高校」には通っていません。
千玄室(15代)の出身大学
中学卒業後は、同志社大学に進学しました。
千玄室さんは法経学部経済学科に在籍していました。
現在の大学の偏差値は、55~62.5です。
大学でも馬術部に入り、大学対抗のリーグ戦に出場しています。
在学中に特攻隊になりましたが、終戦後に復学し卒業しました。
まとめ
千玄室さんは、裏千家15代家元として茶道界を牽引しただけでなく、戦中の特攻隊員としての経験や、馬術界での長年の活動など、多彩な経歴を持つ方でした。
本名や読み方、出身校から歩んできた道のりを知ることで、その人柄や信念の深さがより伝わってきたという印象を受けた方も多いのではないでしょうか。
2025年8月に102歳で亡くなられ、その生涯は日本文化と平和の発信に捧げられました。
千玄室さんが残した功績や精神は、これからも多くの人の心に生き続けるはずです。
今回の記事が、少しでも千玄室さんの魅力を知るきっかけになれば幸いです。
