長年にわたってテレビの世界で親しまれてきた黒柳徹子さん。
その明るさと知性、そして独自の感性は、どんな家庭で育まれたのでしょうか。
お父さんやお母さんはどんな人で、兄弟姉妹はどんな人生を歩んできたのか。
家族の背景を知ることで、黒柳徹子さんの魅力がさらに深く見えてくるかもしれません。
今回は、黒柳徹子さんの実家や家系、そして兄弟姉妹の歩みについて詳しくご紹介します。
黒柳徹子の家系図がすごい!
黒柳徹子さんは、音楽家だったお父さんのもとに生まれました。
芸術に囲まれた環境で育ったことが、のちの多彩な才能にも大きく影響しているようです。
父方の祖父にあたるのは、田口潔矩さんというお医者さんで、東京のカトリック本所教会で長老を務めていたそうです。
信仰と知性を大切にしていた一家であることがうかがえます。
さらに伯父には、松竹蒲田撮影所の初代所長として映画黎明期を支えた田口桜村さんがいます。
また、もう一人の伯父・田口修治さんは、日本ニュース社のニューヨーク支社長や、アメリカのメトロニュースで極東代表を歴任。
戦前から国際報道の第一線で活躍していた人物です。
母方の門山家も、歴史ある家系です。
もともとは愛媛県松山藩に仕えていた家臣の家系で、明治時代に入ってからは医療と地域社会に貢献してきました。
とくに曽祖父の門山周智さんは、東京で医学を学び、地元の山形県松山町(現在の酒田市)で開業医として活躍。
町会議員も務めており、地域に深く根ざした存在だったようです。
こうした背景からも、黒柳徹子さんの家系は、文化・知性・公共性という3つの柱を持った稀有な一族と言えるかもしれません。
黒柳徹子の実家
黒柳徹子さん「戦争反対」なんて言えなかったあの頃 いつもおなかが空いていた幼少期 #あちこちのすずさん – 未来に残す 戦争の記憶 – Yahoo! JAPAN https://t.co/W9QCAL63z5 pic.twitter.com/PV74I55vtI
— mizukister (@mizukister1) August 11, 2022
黒柳徹子さんは、東京府東京市赤坂区乃木坂(現在の東京都港区エリア)で生まれました。
幼少期は、都会の中心地である乃木坂周辺の落ち着いた住宅街で過ごしていたことになります。
その後、お父さんである黒柳守綱さんの音楽活動にともない、家族は洗足池の近くへと引っ越しました。
守綱さんは著名なバイオリニストであり、日々の練習や演奏に適した環境を求めていたようです。
当時の住まいは、旧東急目蒲線の洗足駅にほど近い、大森区北千束町。
自然が多く、静かな住宅地として知られるエリアで、芸術家の家庭にはぴったりの場所でした。
このような環境で育った黒柳徹子さんは、早くから音楽や芸術に触れる機会が多かったことが想像されます。
子ども時代の記憶のなかには、街の空気や近所の風景、家族とのやりとりなどが、豊かに刻まれているのかもしれません。
黒柳徹子の生い立ち
1933年8月9日、黒柳徹子さんは黒柳家の長女として誕生しました。
戦前の東京で生まれ育った黒柳徹子さんは、後に日本のテレビ文化を象徴する存在となりますが、幼少期にはちょっとしたエピソードが残されています。
実はご両親は、男の子が生まれるものと信じ込んで「徹」という名前を準備していたそうです。
ところが生まれてきたのは女の子。
そのため、急きょ「子」をつけて「徹子」と名付けられたのだとか。
この命名エピソードには、どこか微笑ましい家族の空気が漂っています。
小学校時代の黒柳徹子さんは、とにかく元気いっぱいで落ち着きがなかったといいます。
そのため、最初に通っていた学校からは「不適応」とされて1年で退学することに。
けれども、転校先のトモエ学園ではのびのびとした教育に触れ、自分らしさを大切にできる環境で日々を過ごしました。
当時はオペラ歌手に憧れており、本気でその道を目指して音楽学校にも進みました。
けれども学ぶうちに、「自分にはオペラは向いていない」と感じるようになります。
それでも何か人を楽しませたい、心を動かしたいという気持ちは変わらなかったようです。
そんなある日、新聞で「NHK放送劇団の俳優募集」という広告を偶然目にします。
「絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と思ったことが応募のきっかけだったそうです。
将来、自分の子どもに人形劇や読み聞かせをしてあげられるようなお母さんになりたい、という思いが根底にあったと語っています。
この募集には約6000人もの応募がありましたが、厳しい第6次審査までを突破し、見事13人の合格者のうちの1人に選ばれました。
そして1953年1月、黒柳徹子さんはNHK放送劇団の一員としてテレビ女優デビュー。
日本初の“テレビ女優第一号”として、まさに時代の幕開けを飾る存在となったのです。
黒柳徹子の父親
今朝の新聞記事で、黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱さんがバイオリニストだったと言う事を知った。しかもイケメン。シベリア抑留では各地で楽劇団が結成され、守綱さんも楽団員として日本軍捕虜収容所の巡回・慰問に当たっていたそうだ。抑留者が音楽で収容者を癒してたとは。音楽の力を改めて感じた。 pic.twitter.com/9NEAo5AzC4
— Green Pepper (@r2d2c3poacco) August 12, 2021
黒柳徹子さんのお父さんは、音楽家でバイオリニストとして活躍した黒柳守綱さんです。
芸術に真摯に向き合う姿勢は、黒柳家の価値観として子どもたちにも自然と受け継がれていったようです。
守綱さんは、1937年1月に新交響楽団(現在のNHK交響楽団)のコンサートマスターに就任しました。
当時、コンサートマスターは楽団の顔とも言える存在で、その技術力と信頼の厚さがうかがえます。
1942年からは東京弦楽四重奏団の一員としても活動を開始し、室内楽の分野でも高い評価を受けました。
その功績が認められ、毎日新聞社から優秀演奏家賞を受賞するという栄誉にも輝いています。
第二次世界大戦の影響で一時活動を中断せざるを得なかったものの、1949年末には無事帰還。
その後は東京交響楽団のコンサートマスターとして復帰し、戦後の音楽界再建にも尽力しました。
黒柳守綱さんのバイオリンの音色は、時代を超えて人々の心に響いたといわれています。
音楽家としてだけでなく、家庭でも厳しくも温かい父親だったそうです。
そんなお父さんは、1983年4月30日に74歳で亡くなりました。
黒柳徹子さんにとっては、人生の土台を築いてくれたかけがえのない存在だったに違いありません。
黒柳徹子の母親
黒柳徹子、若い頃すごい美人だと思ってたけれど、そもそもご両親が端正な顔立ちだった。 pic.twitter.com/pjTrXwuzAI
— しおりん@二次覚醒((((;゚Д゚))))))) (@shioring2) April 18, 2023
黒柳徹子さんのお母さんは、エッセイストとしても知られる黒柳朝さんです。
芯のある温かさとユーモアを持った女性で、娘の成長を支えながら、ご自身の人生もしっかりと表現されてきました。
朝さんが世間から広く注目を集めるようになったのは、黒柳徹子さんのベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』が出版された後のことです。
この作品に登場する“トットちゃんのお母さん”のモデルが朝さんだと知られ、多くの読者から関心が寄せられました。
そんな中、雑誌『主婦と生活』で自伝的エッセイ『チョッちゃんが行くわよ』の連載がスタート。
日常の出来事を生き生きと綴る語り口が話題を呼び、1984年には同タイトルの単行本も出版され、ベストセラーになりました。
この人気を受けて、1987年にはNHKの朝ドラ『チョッちゃん』としてドラマ化。
さらに1993年に刊行された続編エッセイ『チョッちゃん物語』も好評を博し、1996年にはアニメ映画として映像化されました。
朝さんの文章は、家族を見つめる温かなまなざしと、前向きな生き方がにじみ出ており、多くの読者に勇気を与えました。
まさに“トットちゃんの原点”ともいえる存在です。
そんな朝さんは、2006年8月16日に96歳(満95歳)で亡くなりました。
亡くなるわずか1か月後の9月には、遺作ともいえる著書『チョッちゃんは、もうじき100歳』が出版されています。
そのタイトル通り、最後まで前向きに、そしてユーモアを忘れずに人生を歩み続けた方でした。
黒柳徹子の兄弟や姉妹
黒柳徹子さんには、弟さんが2人、妹さんが1人います。
それぞれが異なる道を歩んでおり、黒柳家の多彩な才能がうかがえるご兄弟です。
長男の黒柳明兒さんは、黒柳家の第一子として生まれましたが、1944年5月に敗血症のため幼くして亡くなりました。
当時はまだ戦時中で、医療も不十分な時代。
徹子さんにとっても深く心に残る出来事だったに違いありません。
次男の黒柳紀明さんは、父・守綱さんの音楽的才能をしっかりと受け継ぎ、ヴァイオリニストとして活躍しています。
1962年に読売日本交響楽団に入団し、のちにドイツのケルンやオランダのロッテルダムといった海外の楽団でも演奏を重ねました。
帰国後の1971年にはNHK交響楽団に加わり、2000年まで現役として活動。
退団後はフロイデフィルハーモニーという楽団で第二ヴァイオリンのトップを務めるなど、現在も精力的に演奏を続けています。
妹の黒柳眞理さんは、元バレリーナであり、美容師・エッセイストとしても活躍してきました。
かつてはプロのバレリーナとして舞台に立っていましたが、19歳のときに足首をひどく捻挫し、夢を断念せざるを得なかったそうです。
その後、お母さんの黒柳朝さんの勧めで美容の道へと進み、美容学校に入学して美容師免許を取得。
私生活では元プロ野球選手の井石礼司さんと結婚・離婚を経験し、その後は美容師としてのキャリアを積みながら、北海道のテレビ番組でコメンテーターとしてもメディア出演していました。
家族それぞれの人生がドラマのように多様で、だからこそ黒柳徹子さんの感性も、より豊かに育まれていったのかもしれません。
まとめ
黒柳徹子さんが芸能界で長年にわたり第一線で活躍し続けている背景には、ご家族の存在が大きく影響しているように感じます。
音楽家として名を残したお父さんや、温かなエッセイで人々の心を掴んだお母さん。
そしてそれぞれの分野で努力を重ねてきたご兄弟たち。
そんな環境で育ったことが、黒柳徹子さんの表現力や感受性を豊かに育てたのでしょう。
どんな時代も前向きに、自分の信じる道を歩んできた黒柳徹子さんの生き方には、学ぶことがたくさんあります。
そして、今も変わらずマルチな才能を発揮し続けている姿には、多くの人が元気をもらっているはずです。
これからも黒柳徹子さん、そして個性豊かなご家族の活動に注目していきたいですね。
