俳優としてだけでなく、ムード歌謡グループ「純烈」のメンバーとしても注目を集めている白川裕二郎さん。
テレビで見かけるたびに、「どんな学生時代を過ごしてきたのか」「どこで育ったのか」気になったことはありませんか?
また、力強い歌声や落ち着いた雰囲気からは想像しにくい、プライベートな一面――たとえば実家の場所や、ご両親・姉との関係なども知りたくなる方は多いかもしれませんね。
この記事では、白川裕二郎さんの出身高校や大学、実家の所在地、そして家族構成について詳しくご紹介します。
人柄が垣間見えるエピソードも交えながら、魅力の背景に迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。
白川裕二郎(純烈)の学歴
白川裕二郎さんが通っていた学校について調べてみました。
白川裕二郎(純烈)の出身小学校
出身小学校は公表されていません。
両親が共働きだったこともあり、3年生の時には自分で米を炊き、1人でご飯を食べることもよくあったそうです。
白川裕二郎(純烈)の出身中学
小学校卒業後は、横浜市立新田中学校に進学しました。
中学では、柔道部に所属していました。
この頃にはチャーハンやみそ汁といった簡単な料理が作れるようになったそうです。
白川裕二郎(純烈)の出身高校
中学校卒業後は、神奈川県立新栄高等学校に進学しました。
偏差値は、46です。
高校では、バレーボール部に所属していました。
白川裕二郎(純烈)の出身大学
高校卒業後は、進学していません。
大相撲の朝日山部屋に入門し、力士になっています。
白川裕二郎(純烈)の実家は港北区?
お花ありがとう!って叫んでみました。もうすぐ2部開演。両親の故郷、自分の田舎でもある福岡。その思い入れのある福岡での公演。あと一回楽しみたいと思います。 pic.twitter.com/hJPUZ4fo3G
— 白川裕二郎 (@junretsu_yujiro) February 28, 2015
白川裕二郎さんは、神奈川県横浜市港北区の出身であることを公表しています。
特に「地元は綱島」という発言がいくつかのメディアやインタビューで見られ、東急東横線の綱島駅周辺で幼少期を過ごしたと考えられています。
駅周辺は住宅地と商店街が広がる落ち着いた地域で、都会的な利便性と親しみやすさを併せ持つエリアとして知られています。
ただし、具体的な実家の住所や建物の詳細については、プライバシーの観点からか一切公表されていません。
そのため「港北区出身」という情報もあくまで本人発信の範囲にとどまっており、推測に基づく情報は控えるのが適切でしょう。
地元の話題が語られる場面では、親しみのある綱島の街並みや人々とのエピソードに触れられることもあり、白川さんが地域に強い愛着を持っている様子が伝わってきますよね。
こうした発言からは、芸能活動を経た今でも地元を大切に思っている姿勢が感じられます。
芸能人として活躍する一方で、こうした「地元愛」が見える一面は、ファンにとってもより身近に感じられるポイントなのかもしれませんね。
白川裕二郎(純烈)の生い立ち
🐾すもうの時間 番外編🐾
— 絵描きのさっちん (@sattinoyakata) November 18, 2018
純烈の白川さんが力士だったのは1995年~1996年の一年間。
大相撲時代の体格は
身長182cm、
体重82kgと小柄な力士で
当時の四股名は「綱ノ富士」
朝日山部屋✨
ぜひ素敵な歌声をお聴きください! pic.twitter.com/eUazdKEb3W
白川裕二郎さんは、1976年12月11日に神奈川県横浜市で誕生しました。
幼少期は、共働きの両親と歳の離れたお姉さんに囲まれて育ち、家で一人で過ごす時間が多かったそうです。
とはいえ、家族からの愛情は深く、とくにお母さんとお姉さんが白川さんをとても可愛がっていたというエピソードは印象的ですよね。
そうした温かな家庭環境が、のちに人を惹きつける優しさや包容力につながっているのかもしれません。
高校卒業後は、なんと大相撲の世界へ飛び込むという大胆な進路を選択しています。
所属していたのは「朝日山部屋」で、1995年9月場所にて初土俵を踏みました。
当時18歳だった白川さんは、心身を鍛えることに全力を注いだ時期だったと語っています。
しかし、もともと腰に持病を抱えていたことから、相撲では満足な結果を残せず、わずか1年で引退を決意。
悔しい気持ちもあったかもしれませんが、厳しい世界に挑戦した経験は、その後の人生の大きな糧になったのでしょう。
その後、進路に迷うなかで、お母さんの一言が新たな扉を開くきっかけになります。
「俳優の道も向いてるんじゃない?」という励ましの言葉をきっかけに、芸能界への挑戦を決意。
スポーツの世界で培った根性と、家族の後押しを受け、俳優として再スタートを切りました。
後年には「純烈」のメンバーとしても活動するようになり、俳優業に加えて歌のステージにも立つなど、活動の幅を広げています。
相撲から芸能界という珍しいキャリア転身を果たした白川さんの歩みは、簡単な道のりではありませんでしたが、だからこそ現在の成功がより説得力を持って映りますよね。
どんなときも家族の支えがあったこと、そして一度きりの人生を恐れずに挑戦し続けた姿勢は、多くの人にとっても励みになるのではないでしょうか。
白川裕二郎(純烈)の父親
白川裕二郎さんのお父さんは、一般の方で表立った情報は多くありませんが、福岡県築城町(現在の築上町)出身とされています。
若い頃にお母さんを追って上京し、家族の反対を押し切って結婚したというエピソードは、情熱的で行動力のある人物像を感じさせますよね。
上京後は小規模ながらも会社を立ち上げ、自らの手で事業を切り盛りしていたそうです。
具体的な業種は明かされていないものの、「便利屋のような仕事をしていた」との証言もあり、地域に根ざした多忙な日々を送っていたことがうかがえます。
家族を支えるために、現場で体を動かしながら働いていた姿が目に浮かびますね。
しかし、白川さんが小学6年生のとき、最愛のお父さんは肺がんにより他界。
まだ少年だった白川さんにとって、大黒柱である父の死は大きな衝撃だったことでしょう。
この経験は、のちに芸能界で努力を重ね続ける強さや粘り強さの原点になったのかもしれません。
表舞台に立つことはなかったお父さんですが、その生き方や家族への想いは、確実に白川さんの中に受け継がれているように感じます。
きっと今も心の中で大きな存在として支えになっているのではないでしょうか。
白川裕二郎(純烈)の母親
白川裕二郎さんのお母さんは、白川みどりさんというお名前で、福岡県築上町(旧・築城町)のご出身です。
真面目な農家の家庭で育ったとされ、堅実で誠実な家庭環境のなかで人としての基礎を築かれたことがうかがえますよね。
地元では教育に携わる仕事に就き、小学校の先生として長年勤めてこられました。
夫である白川さんのお父さんが亡くなったのは、白川さんがまだ小学校6年生の頃。
家計も精神的にも厳しい状況のなか、みどりさんは女手一つで家庭を支え、子どもたちを立派に育て上げました。
教員という職業柄、しっかりとした教育観を持ちつつ、母親としての愛情深さも兼ね備えていたことは想像に難くありません。
白川さんが大相撲の道へ進んだのも、そして後に俳優の道を選んだのも、「お母さんに喜んでもらいたかったから」という純粋な気持ちからだったと語られています。
この言葉からも、母親の存在が白川さんの人生においてどれほど大きかったかが感じ取れますよね。
ただし、男性ムード歌謡グループ「純烈」への加入に関しては、当初は反対していたとのこと。
理由としては、グループの方向性や活動内容が息子に合っているのかどうか、母親なりに心配があったのかもしれません。
それでも白川さんの努力と実績を見守るなかで、次第にその活動を受け入れ、今では心から応援しているそうです。
人生の節目でたびたび登場するお母さんの存在は、白川さんにとって「人生の羅針盤」とも言えるのではないでしょうか。
厳しさと優しさを併せ持ち、子どもの夢を信じて見守る姿勢は、まさに理想的な母親像として多くの共感を呼んでいます。
家庭の温かさや強さが、白川さんの人柄にもにじみ出ているように感じますね。
白川裕二郎(純烈)の兄弟や姉妹
白川裕二郎さんには、7歳年上のお姉さんがひとりいます。
ご本人の発言などから姉弟の存在が知られていますが、お姉さんは一般の方であり、名前や職業、顔写真などの詳しいプロフィールは一切公表されていません。
そのため、具体的な情報はほとんどなく、プライバシーを尊重する姿勢が徹底されていることがうかがえますね。
ただ、白川さんの幼少期について語られたエピソードのなかでは、共働きの両親のもと、一人で過ごす時間が多かったものの、お姉さんからはとても可愛がられていたとの話が印象的です。
年の離れた兄弟姉妹ならではの、どこか親のような目線で接していたのかもしれません。
とくに父親を早くに亡くした家族構成のなかでは、姉の存在が精神的な支えになっていた可能性も考えられます。
このように、詳細な情報が少ないからこそ、家族の絆や信頼関係が見える場面では、より一層温かみを感じますよね。
芸能活動の裏側で、静かに支えてくれている存在があることは、白川さんにとって大きな力となっているのではないでしょうか。
まとめ
小学生の頃にお父さんを亡くした白川裕二郎さんは、お母さんとお姉さんと過ごしてきました。
お母さんは高齢で今はベットの上にいることが多いそうですが、これからもお母さんに喜んでもらえるよう、芸能活動を頑張ってほしいですね。






