ドラマや映画で独特の存在感を放ち続ける俳優・佐野史郎さん。
ミステリアスな役柄の印象が強い一方で、どんな家庭で育った方なのか気になったことはありませんか。
ネット上では「実家が病院を経営している」「お金持ちの家系らしい」といった話がたびたび語られています。
実際の実家は島根県松江市にあり、その歴史は江戸時代末期までさかのぼるんです。
さらに、その家が近年ひとつの区切りを迎えていたことをご存じでしょうか。
この記事では、佐野史郎さんの実家と家族について、ご両親や兄弟のことから実家じまいの決断まで丁寧にたどっていきます。
佐野史郎の実家は松江市の佐野内科循環器科医院
佐野史郎さんの実家について、ネット上では「病院を経営している」と語られることが多くあります。
実際には、島根県松江市にある「佐野内科循環器科医院」が佐野さんのご実家です。
大きな総合病院ではなく、地域に根づいた内科・循環器科の医院になります。
いわゆる「町医者」として、長く松江の人たちの健康を支えてきた場所なんです。
元治元年から続く医家で父は4代目
佐野家の医業は、江戸時代末期の元治元年(1864年)までさかのぼると、佐野さん本人が語っています。
父方の実家が松江で開業医を営んでおり、お父さんはその4代目にあたる方でした。
幕末から数えて160年以上、同じ土地で医業が受け継がれてきたことになります。

1864年ってすごい昔!

幕末から続く医家なんです
診療の内容は代ごとに変わっていて、おじいさんの代は産婦人科を担っていました。
お父さんの代になってから、内科と循環器科を掲げる形になっています。
お父さんが松江へ戻って3年目にあたる昭和39年(1964年)には、鉄筋の新しい医院を増築したと語られています。
ひとつの家が世代をまたいで地域医療を担い続けてきた歩みが、ここからも伝わってきますよね。
所在地は松江市浜乃木、今も診療が続く
佐野内科循環器科医院があるのは、島根県松江市浜乃木1-17-7です。
宍道湖の南側にあたるエリアで、住宅地の中に位置しています。
「実家はもう無くなっているのでは」と思われがちですが、医院そのものは現在も診療を続けています。
公式サイトには外来の時間帯や発熱外来の案内、臨時休診のお知らせが掲載されており、稼働している様子が伝わります。
院長を務めているのは佐野和也さんで、佐野史郎さんの弟にあたる方です。
誰がどのタイミングで家業を継いだのかについては、このあとくわしく見ていきますね。
ここまでの内容を、いちどまとめておきます。
- 医院名:佐野内科循環器科医院
- 所在地:島根県松江市浜乃木1-17-7
- 診療科:内科・循環器科
- 医業の起点:元治元年(1864年)
- 佐野史郎さんのお父さん:4代目の開業医
- 現在の院長:佐野和也さん(弟)

今も松江で続いています

ずっと地元の味方だね
俳優として全国区で知られる佐野史郎さんですが、そのルーツには160年以上続く松江の医家がありました。
作品で見せるあの静かな存在感の背景に、こうした土地と家の歴史があると思うと、印象も少し変わってきますよね。
実家の医院を継いだのは弟の佐野和也
160年以上続いてきた佐野家の医業を、現在受け継いでいるのは佐野史郎さんの弟にあたる方です。
佐野内科循環器科医院の院長は、佐野和也さんという方になります。
佐野史郎さんの4歳下にあたり、佐野家の医業では5代目という位置づけです。
お父さんが4代目でしたから、その次の世代へ確かにバトンが渡されたことになりますね。
2000年6月に院長へ就任
医院の公式サイトに掲載されている経歴によれば、佐野和也さんが院長に就任したのは2000年6月です。
この就任の時期には、もうひとつ見逃せない出来事が重なっています。
お父さんが亡くなったのが、同じ2000年の11月でした。
院長交代からわずか数か月後のことで、家業の継承と父との別れがほぼ同じ年に起きていたことになります。

同じ年だったんだ…

継承と別れが重なりました
それから20年以上、佐野和也さんは松江市浜乃木で診療を続けています。
地域のかかりつけ医として、いまも住民の健康を支える立場にあります。
長男の佐野史郎が家業を継がなかった経緯
ここで気になるのが、なぜ長男である佐野史郎さんが医院を継がなかったのかという点ですよね。
佐野さんは長男として生まれ、幼い頃は自分もいずれ医者になるものと信じて疑わなかったといいます。
ところが高校に入る頃から、理系の科目の成績が下がる一方になっていきました。
医者になる気持ちも次第に薄れ、4歳下の弟が医院を継いでくれればいいと考えるようになります。
長男が家業を継ぐのが当たり前とされた時代でしたが、ご両親が無理強いすることはありませんでした。
そして高校2年生になったとき、佐野さんは文系のクラスを選びます。
この時点で、医学部への道は事実上閉じたことになりました。
佐野さんによれば、このとき親族が集まって話し合いが持たれたそうです。
成績の良かった弟を後継者にする方向で、家の未来が決まっていきました。

高2で決まっちゃうんだ

家を背負う話ですから
佐野史郎さんはこの経緯について、弟に家業を託す形になったことへの申し訳なさをたびたび口にしています。
自分が選ばなかった道を、弟が引き受けてくれたという感覚が今も残っているのでしょう。
医療と表現、進んだ方向はまったく違いますが、どちらも人と向き合う仕事です。
兄弟がそれぞれの場所で役割を果たしてきたからこそ、佐野家の歴史はここまで続いてきたのだと感じます。
佐野史郎の実家がお金持ちと言われる理由
佐野史郎さんの実家については、ネット上で「お金持ちなのでは」という声がたびたび見られます。
代々続く医家という背景があるため、そう受け取られるのは自然な流れかもしれません。
ただし、資産額や年収といった具体的な数字については、これまで一度も明かされていません。
豪邸に住んでいたとか、特別な暮らしをしていたといった話も出てきていないんです。
そのうえで、なぜ裕福な家という印象が広がっているのかを見ていきますね。
祖父母や伯母、住み込み看護師もいた大所帯
「お金持ち」という見方の根拠になっているのが、当時の佐野家の暮らしぶりです。
松江の実家には、両親と子どもたちだけでなく、おじいさんとおばあさん、伯母にあたる方も同居していました。
さらに、住み込みで働く看護師さんもいたと佐野さんが語っています。
医院と住まいが一体になった、かなりの大所帯だったわけですね。

何人で暮らしてたの?

看護師さんも同居でした
建物についても、明治期に建てられたものが後年まで残っていたとされています。
1964年には鉄筋の医院を増築しており、当時としては規模の大きな普請だったことがうかがえます。
こうした住まいの大きさや同居人の多さが、裕福な家というイメージにつながっているようです。
ただ、これは経済的な余裕というより、家業と暮らしが同じ場所にあったことによる規模と見るほうが実態に近いのではないでしょうか。
資産や年収について語られていること
気になる資産面ですが、佐野さん本人が金額に触れた発言は見当たりません。
医院の収入や家の資産についても、公的な資料が出ているわけではないんです。
ネット上で語られている「お金持ち説」は、医家という肩書きから連想されたものが中心だとみられます。
実際、佐野内科循環器科医院は大規模な総合病院ではなく、地域の開業医としての立ち位置です。
佐野さん自身も、実家を「町医者」という言葉で表現しています。
華やかな財力の話というより、地道に地域医療を続けてきた家という表現のほうがしっくりきますよね。

金額の話は出ていません

イメージが先行してたんだ
一方で、経済的な面とは別に、文化的な豊かさがあった家庭だったことは各所で語られています。
本や音楽、映画が身近にある環境で、佐野さんの感受性が育まれていきました。
お金持ちかどうかという問いへの答えとしては、金額では語られていないものの、家業と文化が根づいた家だったというあたりが実像に近いのだと思います。
佐野史郎の生い立ちは東京・練馬から松江へ
佐野史郎さんといえば、島根県松江市の出身として知られていますよね。
生まれは1955年3月4日で、プロフィール上の出身地も松江市とされています。
ただ、幼少期をずっと松江で過ごしたわけではありません。
実は人生の最初の数年間を、東京で暮らしていたんです。

ずっと松江だと思ってた

最初は東京育ちなんです
6歳まで練馬区桜台の借家で暮らした
佐野さんは生まれて間もなく東京へ移り、6歳まで東京都練馬区桜台の借家で過ごしたと語っています。
弟さんが生まれたのも、この東京での暮らしの時期でした。
当時のお父さんは東京医大の勤務医として働いており、家族もそれに合わせて都内に住んでいたわけですね。
松江の大きな実家ではなく、借家からスタートした家族の時間があったことになります。
後年の「代々続く医家の長男」という印象からすると、意外に感じる部分かもしれません。
父の帰郷で移った松江での日々
転機になったのは、お父さんが家業を継ぐために松江へ戻ることを決めたときです。
これにともなって佐野さんも松江へ移り、そこから高校を卒業するまでを島根で過ごしました。
宍道湖や城下町の風景に囲まれた土地で、少年時代の大半が形づくられていったことになります。
移り住んだ先は、祖父母や伯母、住み込みの看護師さんまでが同居する大所帯の家でした。
常に人の出入りがあり、患者さんの気配が生活のすぐ隣にある環境だったわけですね。

にぎやかな家だったんだ

暮らしと医院が地続きです
一方で佐野さんは、静かに本や映画に向き合う時間を好む少年でもありました。
家には文学や芸術に触れる機会があり、自然と想像の世界へ入り込んでいったといいます。
中学3年生のときにはギターを手にし、音楽への関心が一気に広がりました。
高校ではロックバンドを組み、文学や映画、演劇、美術にも熱中していきます。
医家の長男という立場と、表現に惹かれる自分。
このふたつが並んで存在していたのが、松江時代の佐野さんだったのだと思います。
そして高校卒業後、佐野さんは東京へ出て表現の道を歩き始めました。
幼い日に暮らした街へ、今度は自分の意思で戻っていったことになりますね。
佐野史郎の父親は4代目の開業医
佐野史郎さんの人生を語るうえで、お父さんの存在は欠かせません。
松江で続いてきた佐野家の医業において、お父さんは4代目にあたる開業医でした。
診療科は内科と循環器科で、地域のかかりつけ医として長く患者さんと向き合ってきた方です。
なお、お父さんの名前については義和さんという記載が見られますが、本人のインタビューで語られた形跡はありません。
東京医科大学病院の勤務医から松江の家業へ
お父さんは、はじめから松江で開業していたわけではありませんでした。
東京医科大学病院の循環器科で診療にあたる勤務医だった時期があり、家族もその頃は東京で暮らしていたんです。
そこから生家のある松江へ戻り、家業を継ぐ決断をしています。
戻って3年目にあたる1964年には、鉄筋の新しい医院を増築しました。
おじいさんの代は産婦人科でしたが、お父さんの代で内科・循環器科へと診療の柱が移っています。
受け継いだものをそのまま守るのではなく、自分の専門で家業を続けていった形ですね。

東京から松江へ戻りました

大きな決断だったんだね
息子に家を託したい思いと、冬彦さんを喜んだ父
お父さんと佐野さんの関係は、単純なものではありませんでした。
長男である佐野さんに家を継いでほしいという思いを、お父さんは折に触れて伝えていたと語られています。
100年以上続いてきた家業を預かる立場として、当然の願いだったのだと思います。
ところが佐野さんは理系の科目が苦手で、高校2年で文系クラスへ進みました。
それでも、ご両親が進路を無理強いすることはありませんでした。
医師になる道が閉じたことがはっきりしてからは、お父さんはその件について何も言わなくなったといいます。
叱るでも説得するでもなく、口にしなくなったという反応でした。

怒られなかったんだ…

静かに受け入れた形です
その後、佐野さんは俳優として世に知られる存在になります。
1992年の冬彦さん役で社会現象と呼ばれるほどの反響が起きたとき、お父さんはその活躍を喜んでいたと伝えられています。
家を継いでほしいという願いと、息子が選んだ道を認める気持ち。
そのどちらもがお父さんの中にあったのだと感じられるエピソードですよね。
2000年11月に死去
お父さんが亡くなったのは2000年11月のことです。
同じ年の6月には弟さんが院長に就任しており、家業の継承を見届けたうえでの別れとなりました。
佐野さんは病床のお父さんに対して、家のことは自分に任せてほしいという趣旨の言葉をかけたと振り返っています。
医院は弟が守り、家そのものは長男である自分が引き受ける。
この約束が、のちに佐野さんが向き合うことになる大きな出来事へとつながっていきます。
佐野史郎の母親は大社町で育ち佐野家を支えた
佐野史郎さんのお母さんは、島根県の大社町で育った方です。
出雲大社のある土地で少女時代を過ごし、のちに佐野家へ嫁いでいます。
お名前については明かされておらず、職業に関する情報も出ていません。
ネット上では「お母さんも医療関係者だったのでは」という見方が語られることもあります。
ただ、佐野さんが語ってきたのは資格を持つ医療者としての姿ではなく、家業と家庭を支えた妻・母としての姿でした。

お医者さんじゃないの?

家を守る側の役割でした
大所帯の食事を担った毎日
お母さんの日常がどれほど大変だったかは、当時の佐野家の顔ぶれを見ればわかります。
家には夫と幼い子どもたちに加えて、祖父母、伯母、さらに住み込みで働く看護師さんまでいました。
その全員分の食事づくりを、お母さんが担っていたと佐野さんが語っています。
小さな子どもを育てながら、毎日それだけの人数の食卓を用意していたわけですね。
医院と住まいが一体だったため、患者さんの出入りも生活のすぐそばにありました。
家の中が常に動いている状態で、休まる時間は多くなかったはずです。

毎日その人数のごはん…

家業を支えた日々です
佐野さんは、お母さんが佐野家を守ることに力を尽くしてきた人だったと振り返っています。
嫁いだ先が160年続く医家となれば、背負うものの重さは相当だったのではないでしょうか。
診療を続けるお父さんの後ろで、暮らしの土台をつくり続けたのがお母さんだったことになります。
また、家には本や音楽、映画が自然にある環境が整っていました。
佐野さんが幼い頃から表現に触れられたのも、そうした空気を家庭の中に許していたお母さんの存在が大きかったのだと思います。
2024年2月に死去
お母さんが亡くなったのは2024年2月です。
2000年11月にお父さんを見送ってから、20年以上あとのことでした。
この間、松江の実家を守り続けてきたのがお母さんだったわけですね。
そして、お母さんが亡くなったことで、佐野さんはひとつの重い問題と向き合うことになります。
誰も住まなくなった実家を、この先どうするのかという問題です。
弟は医師となり家業を継いだ
3人のうち、もっとも情報がはっきりしているのが弟さんです。
佐野史郎さんの4歳下にあたり、家族がまだ東京で暮らしていた時期に生まれています。
その後は兄と同じく松江へ移り、成績の良さから後継者として期待される立場になっていきました。
弟さんは医師の道へ進み、2000年6月に佐野内科循環器科医院の院長へ就任しています。
公式サイトに掲載されている院長名は佐野和也さんで、佐野家の医業では5代目にあたります。
佐野さんは、家業を弟に託す形になったことについて申し訳ないという気持ちをたびたび口にしてきました。
兄が背負うはずだったものを、弟が引き受けたという構図があるからですね。
その弟さんが20年以上にわたって医院を守り続けていることに、佐野さんは深い感謝を寄せています。
母の死後に向き合った実家じまい
2024年2月にお母さんが亡くなったあと、松江の実家には住む人がいなくなりました。
医院は弟さんが継いでいますが、家そのものを引き継ぐ立場にあったのは長男の佐野史郎さんです。
お墓と家を守る役割を、お父さんとの約束として背負ってきた形でした。
そして佐野さんは、実家を閉じるという決断を選びます。
東京で暮らしながら松江の家を維持し続けるのは難しく、空き家のまま放置することは避けたいという判断でした。

家をなくしちゃうの?

医院はそのまま続きます
20トン規模におよんだ遺品
実家じまいで最も大きな負担になったのが、家に残された膨大な家財でした。
佐野さんによれば、整理した遺品の量は20トン規模にのぼったといいます。
160年以上にわたって同じ家に暮らしてきたわけですから、代ごとの持ち物が積み重なっていたことになります。
明治期に建てられた建物も残っており、そこに収まっていた品々を一つずつ判断していく作業が続きました。
捨てるか残すかを決める行為そのものが、家族の記憶と向き合う時間でもあったはずです。

20トンって想像できない

160年分の家財ですから
この実家じまいの話は、SNS上でも静かな共感を集めました。
自分も同じように実家の片づけに直面しているという声や、その物量に驚く反応が見られています。
有名な俳優の家の話でありながら、多くの人が自分ごととして受け取った話題だったわけですね。
親族へ送った手紙
実家を閉じるにあたって、佐野さんは親族へ手紙を書いています。
そこには医家の歴史に幕を閉じることになったという趣旨の言葉がつづられていたと報じられました。
守ることができなかったことへのお詫びも記されていたといいます。
個人の判断で処分できる家ではなく、親族全体にとっての実家だったからこその行動ですよね。
家業を継げなかった長男が、最後に家の始末を引き受ける。
佐野さんが長く抱えてきた立場が、この場面に集約されているように感じられます。
医院は続き、家としての歴史には幕
ここで混同しやすいのが、「実家じまい」と「医院の閉院」はまったく別の話だという点です。
閉じられたのは佐野さんが引き継いでいた家屋のほうで、佐野内科循環器科医院は現在も松江市浜乃木で診療を続けています。
公式サイトでは外来の案内も掲載されており、弟さんが院長として地域医療にあたっている状況です。
つまり、住まいとしての佐野家は幕を下ろし、医業としての佐野家は続いていることになります。
元治元年から数えて160年以上。
そのうち住まいの部分だけが、佐野さんの手で静かに閉じられました。
俳優として全国で知られる一方、故郷では家を畳む長男としての時間を過ごしていた。
その両方があることを知ると、佐野史郎さんという人の輪郭がまた少し変わって見えてきますよね。
まとめ
佐野史郎さんの実家についてたどってきました。
ここまでの内容を振り返っておきますね。
- 実家は島根県松江市浜乃木の「佐野内科循環器科医院」
- 医業の起点は元治元年(1864年)で、お父さんは4代目の開業医
- 現在の院長は弟の佐野和也さんで、2000年6月に就任
- お金持ちかどうかは金額として明かされておらず、大所帯の暮らしぶりが印象のもとになっている
- 6歳まで東京都練馬区桜台で暮らし、その後は高校卒業まで松江で過ごした
- お父さんは2000年11月、お母さんは2024年2月に死去
- きょうだいは3人で、4歳下の弟が5代目として家業を継いだ
- お母さんの死後、佐野さんは実家じまいを決断した
医家の長男として生まれながら、佐野さんが選んだのは表現の道でした。
家業は弟さんが引き受け、松江での診療は今も続いています。
一方で、住まいとしての実家は佐野さんの手で静かに閉じられました。

家族みんなの物語だね

160年分の歩みでした
継ぐ人と、継がなかった人。
どちらの選択も家を支える形になっていたのだと、こうしてたどると見えてきます。
作品の中で見せるあの静かな存在感の奥に、松江での長い時間があったわけですね。
佐野史郎さんの歩みや出演作については、関連記事でもくわしく紹介しています。
出典まとめ
- 佐野内科循環器科医院 公式サイト
- 佐野内科循環器科医院 医師紹介
- 株式会社mewgull 佐野史郎 公式プロフィール
- 朝日新聞社 マリオン インタビュー
- スポニチ Sponichi Annex
- 日刊ゲンダイDIGITAL
