唯一無二のギタープレイで知られるロックミュージシャン・布袋寅泰さん。
その圧倒的な存在感に惹かれ、「どんな家庭環境で育ったのか?」と気になって検索された方も多いのではないでしょうか。
布袋さんは、自身が韓国と日本のルーツを持つハーフであることを明かしており、そこから家族への関心が高まっています。
父親や母親はどんな人物だったのか、兄弟との関係性は?
そして、生まれ育った実家の環境とは?
この記事では、布袋寅泰さんの家族構成を中心に、知られざるルーツや背景に迫っていきます。
読み進めるうちに、音楽だけでは語り尽くせない布袋さんの魅力が、少しずつ見えてくるかもしれません。
布袋寅泰は韓国とのハーフ!
圧倒的な存在感と個性で長年にわたり日本の音楽シーンを牽引してきた布袋寅泰さん。
そのルーツには、国際的な背景があることをご存じでしょうか。
「布袋寅泰さんはハーフなの?」と気になって検索された方も多いかもしれませんね。
実際、布袋さんの父親は韓国出身の方とされており、母親は北海道余市町で生まれ、樺太(現在のサハリン)で育った経歴を持つ人物です。
母方にはロシア系の血筋があり、日本国籍を有していることが知られています。
このように、布袋さんは韓国系とロシア系のルーツを併せ持つ、非常に多文化的なバックグラウンドを持っているのです。
つまり、血筋としては「韓国人の父」「ロシア系日本人の母」という構成になり、布袋さん自身は韓国とロシアの要素が混ざったクォーターということになります。
ただし、生まれも育ちも日本であり、国籍も日本。
ご本人も公の場で「自分は日本人」と語っており、アイデンティティは日本に根ざしています。
過去のインタビューでは、こうしたルーツについて「誇りに思っている」と語っていたこともあり、その多様なバックグラウンドが音楽性や美意識に影響しているのではないかと感じさせますよね。
異なる文化を内包する環境で育ったことが、布袋さんの国際的なセンスや自由な発想の土台となっているのかもしれません。
また、1980年代から90年代にかけて、海外のアーティストとの共演やプロジェクトも積極的に行っていた姿を見ると、そのグローバルな感覚は単なる偶然ではなく、背景からくる自然な流れのようにも思えます。
ファッションやビジュアルの面でも、いわゆる「典型的な日本人像」にとらわれない独自のスタイルを貫いている点も、ルーツとの関係を感じさせます。
そう考えると、布袋寅泰さんの魅力は、音楽だけでなく、生き方そのものが“ボーダレス”であることにあるのかもしれませんね。
このように、布袋さんの出自はシンプルに「ハーフ」と表現するには少し複雑で、むしろ多国籍な要素を持つ“ミックスルーツ”と言えるでしょう。
日本というフィールドで活躍しながらも、その内面には多様な文化が息づいている。
その事実を知ると、作品に込められた情熱や世界観の奥行きが、さらに感じられるのではないでしょうか。
布袋寅泰の実家は高崎
唯一無二のギタースタイルと圧倒的な存在感で知られる布袋寅泰さんは、群馬県高崎市の出身です。
現在の活躍からは想像しづらいかもしれませんが、幼少期から青年期にかけては、裕福さと苦労の両方を経験する波乱万丈な家庭環境で育ったようです。
高崎市内のどこに実家があったのかという詳細な住所は公表されていませんが、かつては「一般家庭の2倍以上は裕福だった」と本人が語っていたこともあるそうで、豪邸でのびのびと暮らしていた時期があったことは間違いなさそうです。
家の広さや生活ぶりを振り返るインタビューなどでは、当時の生活が非常に恵まれていたことがうかがえますよね。
しかしその豊かな日々は、突然終わりを迎えることになります。
布袋さんが高校3年生のとき、父親の事業がうまくいかなくなり、経済的に困窮。
さらには、そのタイミングで父親が家族を残して韓国に戻ってしまったとされ、家庭は一変します。
その後は、母親が一家を支える立場となり、当時の豪邸暮らしから一転、わずか4畳のアパートでの生活が始まったといいます。
このエピソードはファンの間でもよく知られており、まさに“天国から地獄”のような転落劇だったかもしれませんね。
それでも布袋さんの母親は、持ち前の強さと覚悟でその苦境に立ち向かい、最終的には背負った借金を完済したと言われています。
親子の絆や、逆境に立ち向かう精神力がどれほど強かったのか、想像するだけでも胸を打たれるものがあります。
また、このような厳しい家庭環境が、後に布袋さんの音楽性や価値観に強く影響を与えたのではないかと感じるファンも多いようです。
華やかなステージの裏にある“人間・布袋寅泰”の原点が、この高崎での体験にあると考えると、音楽の一音一音にも重みが増して感じられますよね。
実家の場所こそ詳しくは明かされていないものの、群馬県高崎市という地が、布袋さんにとっては原点であり、苦楽をともにしたかけがえのない場所だったのではないでしょうか。
豊かさと困難、その両方を経験した土地で育まれた芯の強さが、今の活動にも通じているように思えます。
布袋寅泰の父親
布袋寅泰さんのお父さんは、貿易商で、1年の大半を国外で過ごしていました。
また韓国にも家庭があったことから、お母さんは「日本での妻」という立場だったそうです。
そのため母子家庭同然で育った布袋寅泰さんですが、お父さんが帰ってくると非常に厳しい躾をされたそうで、食事の時は家族全員が正装をしてテーブルマナーを徹底的に教え込まれたとのことでした。
そんなお父さんが借金を背負い、韓国に帰った時、布袋寅泰さんはお母さんと自分が捨てられたと思い、父親を憎むようになったのです。
その後両親が離婚したということもあり、一切会うことはありませんでした。
布袋寅泰さんのお父さんは布袋寅泰さんのことを気にかけ、東京ドームで行われた「BOØWY」のラストライブ「LAST GIGS」にも来ていました。
しかしチケットを持っていなかったため、ライブ中はずっとドームの壁に耳を当てて聞いていたそうです。
ライブが終わると「BOØWY」のファンらと写真を撮って韓国に帰国しましたが、その数年後に他界してしまいました。
お父さんは亡くなる直前に布袋寅泰さんに会いたがっていたものの、布袋寅泰さんはそれを頑なに拒否していたのです。
お父さんが亡くなってから当時の秘書から連絡あり、布袋寅泰さんはラストライブにお父さんが来ていたことを知りました。
自分のことを気にかけていたことを知った布袋寅泰さんは、自身のオフィシャルブログに「いつの日か、異国の地に父の墓を探し、花を供えたいと思う」と綴っています。
布袋寅泰の母親
布袋寅泰さんのお母さんは、厳格なお父さんとは対照的に天真爛漫な女性で、一時期は地元高崎駅前でクラブ経営をしていたそうです。
BOØWY初期は布袋寅泰さんの音楽活動に対し否定的だったものの、1986年に初の日本武道館ワンマンライブに招いた際には終演後「あなたならやると信じていたわ」と言っていたのだそうです。
そんなお母さんの布袋寅泰さんに対する口癖は、「大丈夫?」、「ちゃんと食べてる?」、「ありがとう」の3つでした。
この言葉は、どんなに布袋寅泰さんが売れっ子になっても言っていました。
またお母さんは、「私の人生で一番幸せだったのはあなた達を育てていた時間だったわ」とも言っていたのだそうです。
2013年9月2日に旅立ってしまいましたが、お母さんが亡くなった後のブログで、布袋寅泰さんは「母の愛に包まれて、僕らは今も幸せです」と投稿していました。
布袋寅泰の兄弟や姉妹
布袋寅泰さんには、狩野環さんと言う妹さんがいます。
かつてバンド「ガラパゴス」のヴォーカルとして活動していました。
「ガラパゴス」は、1991年から1992年に行われた布袋寅泰さんのGUITARHYTHM ACTIVEツアーで前座を務めたり、布袋寅泰さんが同バンドの楽曲『月の流す涙』をラジオ内でカヴァーしたりと、音楽上でも交流がありました。
1994年の「ガラパゴス」の解散後は新たに「SUPER EGO」を結成、その後同バンドのドラマーと結婚し、現在は音楽活動を行っていないようです。
シンガーソングライターのタグチハナさんは狩野環の長女で、2015年にメジャーデビューしています。
まとめ
布袋寅泰さんは、韓国とロシアのルーツを持ちながら、日本で生まれ育ち、独自の感性と圧倒的な存在感で音楽シーンを駆け抜けてきました。
華やかなキャリアの裏には、父親の事業破綻や家庭の経済的困難など、決して平坦ではなかった過去があることがわかります。
父親との関係には複雑な背景がありながらも、母親と二人三脚で乗り越えてきた経験が、布袋さんの芯の強さやクリエイティブな原動力に繋がっているように感じられますね。
現在の多彩な活躍を見ていると、きっとご両親も誇らしい思いで見守っているのではないでしょうか。
家庭環境や家族構成を知ることで、布袋寅泰さんという人物により深く共感できたという方も多いかもしれません。
気になる方は、過去のインタビューや映像作品などを改めて振り返ってみるのもおすすめです。
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