ロックミュージシャンでギタリストの布袋寅泰さんは、どんな家庭で育ったのでしょうか。
自身が韓国とのハーフであることを公表していますが、両親はどんな人だったのでしょうか。
今回は、布袋寅泰さんの家族について調べてみました。
布袋寅泰は韓国とのハーフ!
布袋寅泰さんのお父さんは、韓国人の方でした。
お母さんは北海道余市町生まれ、樺太(サハリン)育ちで、ロシア系であり、日本国籍を持っています。
そのため布袋寅泰さんは半分韓国人の血が、1/4ロシア人の血が流れている混血ということになりますが、生まれも育ちも日本ということで、布袋寅泰さん自身の国籍は、日本です。
布袋寅泰の実家は高崎
布袋寅泰さんは、群馬県高崎市出身です。
実家の詳しい場所は公表されていませんが、幼い頃は裕福な家庭で育ち、一般家庭のふた回りくらいお金持ちだったのだそうですよ。
しかし高校3年生の時にお父さんの事業が傾き、お父さんが家庭を捨てて韓国に戻ってしまったことから、お母さんが借金を背負うことになり、豪邸暮らしの裕福な生活から一転して4畳ひと間のアパート暮らしになってしまいました。
とても貧しい暮らしだったものの、お母さんは借金を完済したようです。
布袋寅泰の父親
布袋寅泰さんのお父さんは、貿易商で、1年の大半を国外で過ごしていました。
また韓国にも家庭があったことから、お母さんは「日本での妻」という立場だったそうです。
そのため母子家庭同然で育った布袋寅泰さんですが、お父さんが帰ってくると非常に厳しい躾をされたそうで、食事の時は家族全員が正装をしてテーブルマナーを徹底的に教え込まれたとのことでした。
そんなお父さんが借金を背負い、韓国に帰った時、布袋寅泰さんはお母さんと自分が捨てられたと思い、父親を憎むようになったのです。
その後両親が離婚したということもあり、一切会うことはありませんでした。
布袋寅泰さんのお父さんは布袋寅泰さんのことを気にかけ、東京ドームで行われた「BOØWY」のラストライブ「LAST GIGS」にも来ていました。
しかしチケットを持っていなかったため、ライブ中はずっとドームの壁に耳を当てて聞いていたそうです。
ライブが終わると「BOØWY」のファンらと写真を撮って韓国に帰国しましたが、その数年後に他界してしまいました。
お父さんは亡くなる直前に布袋寅泰さんに会いたがっていたものの、布袋寅泰さんはそれを頑なに拒否していたのです。
お父さんが亡くなってから当時の秘書から連絡あり、布袋寅泰さんはラストライブにお父さんが来ていたことを知りました。
自分のことを気にかけていたことを知った布袋寅泰さんは、自身のオフィシャルブログに「いつの日か、異国の地に父の墓を探し、花を供えたいと思う」と綴っています。
布袋寅泰の母親
布袋寅泰さんのお母さんは、厳格なお父さんとは対照的に天真爛漫な女性で、一時期は地元高崎駅前でクラブ経営をしていたそうです。
BOØWY初期は布袋寅泰さんの音楽活動に対し否定的だったものの、1986年に初の日本武道館ワンマンライブに招いた際には終演後「あなたならやると信じていたわ」と言っていたのだそうです。
そんなお母さんの布袋寅泰さんに対する口癖は、「大丈夫?」、「ちゃんと食べてる?」、「ありがとう」の3つでした。
この言葉は、どんなに布袋寅泰さんが売れっ子になっても言っていました。
またお母さんは、「私の人生で一番幸せだったのはあなた達を育てていた時間だったわ」とも言っていたのだそうです。
2013年9月2日に旅立ってしまいましたが、お母さんが亡くなった後のブログで、布袋寅泰さんは「母の愛に包まれて、僕らは今も幸せです」と投稿していました。
布袋寅泰の兄弟や姉妹
布袋寅泰さんには、狩野環さんと言う妹さんがいます。
かつてバンド「ガラパゴス」のヴォーカルとして活動していました。
「ガラパゴス」は、1991年から1992年に行われた布袋寅泰さんのGUITARHYTHM ACTIVEツアーで前座を務めたり、布袋寅泰さんが同バンドの楽曲『月の流す涙』をラジオ内でカヴァーしたりと、音楽上でも交流がありました。
1994年の「ガラパゴス」の解散後は新たに「SUPER EGO」を結成、その後同バンドのドラマーと結婚し、現在は音楽活動を行っていないようです。
シンガーソングライターのタグチハナさんは狩野環の長女で、2015年にメジャーデビューしています。
まとめ
お父さんとの関係は修復することが出来ませんでしたが、お父さんもお母さんも布袋寅泰さんの活動を誰よりも応援していました。
今も布袋寅泰さんの近くで見守ってくれていると思います。
両親の気持ちを胸に、これからも音楽の世界で頑張ってほしいですね。