宝塚出身と聞くと「舞台女優?」というイメージを持つ方も多いかもしれませんが、小柳ルミ子さんはちょっと異色の経歴を持っています。
実は、宝塚歌劇団に在籍していたのはわずか2ヶ月。
しかも当初から「歌手になること」が目標で、宝塚はその通過点だったというのです。
そんな小柳ルミ子が、なぜ宝塚音楽学校を主席で卒業し、どんな思いで退団を決めたのか気になりませんか?
あわせて、出身の小学校・中学校・高校(実質的には宝塚音楽学校)や、大学進学の有無、さらに今もなお愛され続ける代表曲についても深掘りしてみました。
歌手として、そして芸能人として独自の道を切り拓いてきた小柳ルミ子のルーツを知ると、これまでとは違った一面が見えてくるかもしれません。
小柳ルミ子の若い頃がかわいい!
小柳ルミ子さんの若い頃の写真は、今でもSNSでたびたび話題になります。
若いときの小柳ルミ子めっちゃ可愛い pic.twitter.com/dFjUmNckoX
— 藻屑 (@tfNvgNdrIOYdNCy) December 30, 2020
フード付きのコート(ダッフルコート?)って1970年代の人が着てると違和感があるなぁ…。
— ロジャー七福(高宮) (@V6fNXfC87AtWPPw) November 3, 2023
歴史ある服とはいえ最近のイメージがあるんだよねぇフードって。
それにしても小柳ルミ子かわいいな。 pic.twitter.com/kCsHf50egn
小柳ルミ子の若い頃愛嬌ある感じで可愛い pic.twitter.com/IYmDUOPfhF
— beat (@betnapo) January 14, 2022
当時の写真を見ると、ぱっちりとした目元に、キュッと上がった口角、柔らかな雰囲気の笑顔が印象的で、まさに“時代を超えて可愛い”という声が集まっているのも納得です。
1970年代のアイドルらしい清楚でナチュラルな魅力がありながら、どこか現代的な雰囲気も感じさせる佇まいは、今見ても古さをまったく感じさせません。
X(旧Twitter)上では、「小柳ルミ子の若いとき、めっちゃ可愛い」「フード付きのコートを着てるのも新鮮でおしゃれ」などの投稿も見られ、1970年代当時のファッションやヘアスタイルとともに、小柳ルミ子さんの魅力を懐かしむ声が多く寄せられています。
中には「今見ても垢抜けてる」「愛嬌があって親しみやすい顔立ち」といった反応もあり、年齢や時代を超えて“かわいさ”が語られているのが印象的です。
特に1971年のデビュー曲『わたしの城下町』で一躍ブレイクを果たした頃は、演歌調のしっとりとした歌声と、控えめで品のあるビジュアルが相まって、多くのファンを虜にしました。
当時の雑誌やレコードジャケット、テレビ出演時の映像などを見ても、そのビジュアル的な完成度の高さが際立っており、“国民的アイドル”と呼ばれた理由もうなずけます。
また、若い頃から現在に至るまで、自己プロデュース力の高さも注目されてきました。
メイクやファッション、立ち居振る舞いなどにおいても“美意識の高さ”を感じさせる場面が多く、単なるアイドルの枠にとどまらず、表現者としての芯の強さも垣間見えます。
そうした姿勢が、年月を経ても“若い頃が可愛い”と評価され続ける理由のひとつかもしれません。
今なおテレビや舞台で活躍を続けていることもあり、往年のファンだけでなく、最近彼女を知った若い世代からも「昔の写真を見て惹かれた」という声がちらほら。
過去の一瞬の輝きが、今もなお多くの人に影響を与えていることから、小柳ルミ子さんの“若い頃の可愛さ”は、単なる見た目だけではなく、存在そのものの魅力として語り継がれているようです。
小柳ルミ子は宝塚出身!宝塚時代の芸名は?
「本当に美少女」「さすが首席!」 小柳ルミ子、約50年前の“宝塚音楽学校”時代がスターの輝き(ねとらぼ) https://t.co/TuMgNKh9aO pic.twitter.com/tbNdtCKApu
— ダウンチャウン (@cyu_gokuama) March 4, 2019
小柳ルミ子さんは、宝塚歌劇団の56期生として宝塚の舞台に立っていた経歴を持っています。
もともと「歌って踊れるエンターテイナー」を目指していたことから、芸能界入りのきっかけは友人の紹介で知り合った先輩・梓みちよのつながりにあったようです。
その縁で当時の渡辺プロダクションに「歌手になりたい」と直談判したところ、「宝塚音楽学校を首席で卒業したら、歌手にしてあげる」と条件を提示されたといいます。
このひとことが運命を動かすことになり、彼女は本気で宝塚音楽学校を受験。見事合格を果たし、1970年には首席で卒業しています。
この実績は芸能界でも異例のエピソードとして語られることが多く、努力家で芯の強い一面を象徴するエピソードのひとつとも言えます。
そして約束通り、卒業後は歌手デビューへと向かっていくのですが、当時の慣例もあり「初舞台だけは経験しておきなさい」との助言を受け、宝塚歌劇団に入団。
その際の芸名が「夏川るみ」でした。
この芸名で1970年の星組公演『アポローの海』にて初舞台を踏んでいます。
舞台経験はごく短期間でしたが、後に芸能界で歌手・女優として幅広く活躍するうえで、舞台人としての所作や表現力を身につける貴重な基礎となったことは間違いありません。
また、宝塚時代の同期には、後に女優として名を馳せた麻実れいや東千晃、元専科の萬あきららが名を連ねています。
いずれも舞台や映像の世界で活躍し続けた面々であり、その中でも小柳ルミ子さんは歌手として圧倒的な成功を収めた存在でした。
宝塚を経てすぐに芸能界へと羽ばたいた経緯は、在団経験のある著名人の中でも比較的珍しいケースで、彼女の早熟さと行動力を物語るエピソードとして語り継がれています。
芸名「夏川るみ」の存在は現在ではあまり知られていないかもしれませんが、彼女のキャリアの原点を辿るうえで欠かせないワンシーンと言えるでしょう。
小柳ルミ子が宝塚が退団した理由
小柳ルミ子さんが宝塚歌劇団を退団したのは、入団からわずか2ヶ月後のことでした。
理由として本人が明かしているのは、「踊りや演技ではなく、歌一本で勝負したい」という明確な意思。
そもそも宝塚入りの経緯も、“舞台女優になりたい”というものではなく、「歌手になるためのステップとして、首席で卒業すればチャンスが開ける」という条件を達成するためだった背景があります。
そのため、初舞台を経験した後は迷いなく歌手への道に舵を切った形です。
また、宝塚時代には当時の厳しい上下関係や、理不尽な扱いにも悩まされていたことを過去のインタビューで語っています。
「舞台衣装に袖を通すと、指先にチクリと痛みが走る。見てみると、ファスナーの内側に釘が刺さっていて、指に食い込んでいた」といった具体的な体験談もあり、一種の“いじめ”とも取れる出来事があったことを告白していました。
このような環境も、退団を後押しする要因になったと見られています。
ただし、当時から歌手としての意志は非常に強く、宝塚音楽学校を首席で卒業するほどの努力と集中力を見せていたことからも、本来の目標は一貫してブレていなかったことがうかがえます。
演技やダンスよりも、自分の声で表現することにこだわり続けた姿勢は、その後の音楽活動にも色濃く表れています。
デビュー曲『わたしの城下町』で大ヒットを飛ばし、一気に国民的歌手となったのも、本人のブレない信念が実を結んだ結果と言えるでしょう。
宝塚での経験が短期間で終わったとはいえ、その濃密な数ヶ月が彼女の芸能人生にとって重要な通過点だったことに変わりはありません。
小柳ルミ子の学歴
小柳ルミ子さんは、子どもの頃から勉強がよくできるタイプだったそうです。
実は、芸能界を目指し始めたのも早く、普通の進学ルートとは少し違う道を選んでいます。
どんな学校に通っていたのか、ひとつずつ見ていきましょう。
小柳ルミ子の出身小学校
小柳ルミ子さんは、福岡市立西新小学校出身です。
小学生のころから成績がよく、先生からの信頼も厚かったみたいです。
本人いわく、卒業式では担任の先生との別れが寂しくて泣いてしまったとか。
そんなエピソードからも、人との関係を大切にする優しい性格が伝わってきますね。
小柳ルミ子の出身中学
小学校卒業後は、筑紫女学園中学校に進学しました。
福岡ではしっかりとした教育で知られる女子校で、偏差値は今でいうとだいたい56くらい。
中学時代も引き続き成績は優秀で、真面目に勉強していたそうです。
この頃にはすでに「歌手になりたい」という夢を持ち始めていたんじゃないかと思います。
小柳ルミ子の出身高校
中学校卒業後は、宝塚音楽学校に進学しました。
全国から応募が集まる超人気の学校で、入るのも本当に狭き門。
そんな中で、小柳ルミ子さんは入学時の成績が5番以内、そして卒業時はなんと主席。
しかも「主席で卒業したら歌手にする」という条件を本当にクリアしてしまったんです。
どれだけ努力したかが伝わってきますよね。
小柳ルミ子の出身大学
宝塚音楽学校を卒業したあとは、宝塚歌劇団に入団して初舞台を経験。
その後すぐに退団して芸能界デビューを果たしたため、大学には進学していません。
ちなみに、宝塚音楽学校は“高校”の扱いではないため、最終学歴としては「中卒」と言われることもあります。
ただし、そこで学んだ内容はかなり専門的。
歌やダンス、演技などを本格的に学んでいるので、一般的な学歴以上の価値があると言ってもいいかもしれません。小柳ルミ子さんの華やかな芸能キャリアは、ここでの経験が大きな土台になっています。
小柳ルミ子の代表曲
小柳ルミ子さんの代表曲といえば、やはり「瀬戸の花嫁」が最もよく知られています。
1972年4月に発売された4枚目のシングルで、発売当時から大きな反響を呼び、週間オリコンチャートで堂々の1位を獲得。
さらにその年の『第3回日本歌謡大賞』では大賞を、『第14回日本レコード大賞』では歌唱賞を受賞するなど、音楽賞を次々と受賞し、一気に国民的歌手としての地位を確立しました。
この曲は、結婚を控えた女性の心情をしっとりと歌い上げたバラードで、当時の世代には「娘を嫁に出す日」を重ねて聴いたという親世代の声も多く、長年にわたって愛され続けています。
作詞は山上路夫、作曲は平尾昌晃と、昭和歌謡を代表する名コンビによる作品で、メロディーも歌詞もどこか懐かしく、優しさに包まれた雰囲気が魅力です。
また「瀬戸の花嫁」は、楽曲の人気が高いことから、現在も公共空間で使用されている場面があります。
たとえば、JR四国の予讃線沿線や、JR西日本の瀬戸大橋線(岡山駅・児島駅・宇野駅など)では、列車発着時の駅メロディーとしてこの曲が採用されており、通勤・通学の風景の中で今も多くの人の耳に触れています。
まさに“時代を超えて心に残る一曲”という表現がふさわしい存在です。
なお、小柳ルミ子さんはこの曲でブレイクする以前、1971年のデビュー曲「わたしの城下町」でも大ヒットを記録しており、以降も「京のにわか雨」や「冬の駅」など、しっとりとした情感を湛えた名曲を数多くリリースしていますが、やはり「瀬戸の花嫁」はその中でも特別な一曲。
音楽史にも名を残す、代表作中の代表作として、多くの人に記憶されています。
まとめ
宝塚音楽学校を首席で卒業しながらも、「歌一本で勝負したい」という強い想いから、早々に退団を決意した小柳ルミ子さん。
その潔い選択は、のちの華やかな歌手人生へとつながっていきました。
デビュー曲「わたしの城下町」に始まり、「瀬戸の花嫁」など数々の名曲を世に送り出した実績は、まさに彼女の努力と信念の結晶です。
出身校や経歴を振り返ると、若い頃から芯のある行動力と表現者としての資質があったことがよくわかります。
宝塚出身という肩書きにとらわれず、自分らしい道を切り開いてきた姿に、勇気をもらった方も多いのではないでしょうか。
これからも、小柳ルミ子さんらしい輝きを放ち続けてくれることを楽しみにしたいですね。
この記事が少しでも彼女の魅力を再発見するきっかけになれば幸いです。
気になる方は、ぜひ代表曲も聴き返してみてください。
