大声で「こ〜んに〜ちは〜!!」と挨拶しツッコまれる『錦鯉』の長谷川雅紀さん。
実家について調べると「火事」「全焼」という言葉が並んで出てきますが、実際のところはどうなのでしょうか。
2026年8月8日に放送されたNHK『ファミリーヒストリー』では、これまで語られてこなかった長谷川家の歩みも明かされました。
今回は、長谷川雅紀さんの実家や火事のその後、家族について調べてみました。
錦鯉長谷川雅紀の実家は札幌の居酒屋「蓑屋」
長谷川雅紀さんの実家は、北海道札幌市にある居酒屋です。
お店の名前は「蓑屋」といい、現在はお母さんが切り盛りしています。
テレビや雑誌で「錦鯉の実家」として紹介される機会も増え、地元では知られた存在になっています。
芸人として芽が出るまでの長い下積みを、この場所から支え続けてきたお店でもあります。
実家の居酒屋「蓑屋」がある場所
「蓑屋」の住所は、北海道札幌市白石区本郷通12南4-18です。
地下鉄東西線の南郷13丁目駅から歩いて向かえる、住宅街の中にあるお店です。
ORICON NEWSが2026年2月に掲載した長谷川雅紀さんへの取材記事では、お母さんが約20年にわたってお店を営んでいると紹介されています。
お店の看板や店内には「錦鯉」のポスターが貼られており、テレビ番組で店内の様子が映されたこともあります。
なお営業時間や定休日は変わることがあるため、訪れる際は事前に確かめておくと安心です。
店名は「蓑屋」と表記されますが、ネット上では「簑屋」と書かれていることもあります。

お母さんが一人で?

20年以上続くお店です
珍味店からラーメン店、そして居酒屋へ
長谷川家の実家は、はじめから居酒屋だったわけではありません。
長谷川雅紀さんが小さい頃、実家では珍味を扱うお店を営んでいました。
このお店は、長谷川雅紀さんが8歳の頃に閉店しています。
その後、小学生だった時期にはラーメン店を営んでいたと、長谷川雅紀さん自身が2026年の取材で語っています。
そして現在の居酒屋「蓑屋」へとつながっていきます。
お母さんが業態を変えながら、家族の暮らしを支え続けてきたことになります。
2021年の『M-1グランプリ』優勝以降は、遠方から足を運ぶお客さんも増えたと言われています。
長谷川雅紀さんにとっては、売れない時代からずっと変わらずにあり続けた場所でもあります。
錦鯉長谷川雅紀の実家は火事で全焼した?2022年の火災とその後
長谷川雅紀さんの実家について調べると、「火事」「全焼」という言葉が並んで出てきます。
実際に2022年9月、実家の居酒屋で火災が起きてニュースにもなりました。
ただしお店が全焼したという事実はありません。
燃えたのは屋外の看板が中心で、店内への延焼もけが人もありませんでした。
お母さんも無事で、その後もお店は営業を続けています。

全焼じゃなかったんだ

看板中心のぼやでした
2022年9月10日に起きたこと
火災が起きたのは、2022年9月10日のことです。
札幌市白石区にある飲食店で火が出たと、日テレNEWS NNNなどが報じました。
火は約40分後に消し止められています。
燃えたのは屋外に設置されていた電光看板で、店内の焼損は報じられていません。
けが人もなく、当時店にいたお母さんも無事でした。
長谷川雅紀さん本人も、当日のうちにX(旧Twitter)で状況を発信しています。
出火の原因は漏電とされており、お母さんを含めてけがをした人はいないと本人が伝えました。
日刊スポーツでも同様の内容が報じられています。
「全焼」という表現はネット上で広まったものですが、報道された内容とは異なります。
火災のあとも営業が続く「蓑屋」
気になるのは、火災のあとお店がどうなったのかという点です。
結論から言うと、「蓑屋」は現在も営業を続けています。
ORICON NEWSが2026年2月に公開した記事では、お母さんが一人でお店を営んでいる様子が長谷川雅紀さんの言葉とともに紹介されました。
火災から3年以上が経った時点でも、変わらずお店が続いていることになります。
SNS上でも、実際に足を運んだ人の投稿が今も見られます。
地元のダチと芸人の錦鯉 長谷川さんの実家の飲み屋行ったった pic.twitter.com/nixwgDFKAL
— クソアルパカ (@kusoalpaca) June 30, 2024
お店を訪れたファンが写真を投稿するなど、火災の話題よりも「錦鯉の実家に行った」という報告のほうが目立っています。
ただし営業時間や定休日はその時々で変わることがあります。
来店を考えている場合は、事前に営業状況を調べてから向かうのがおすすめです。
ファミリーヒストリーで明かされた長谷川家のルーツ
2026年8月8日、NHK総合の『ファミリーヒストリー』で長谷川雅紀さんの家族史が取り上げられました。
放送は22時からでした。
サブタイトルは「遅咲きの息子へ 母の思い」です。
50歳で『M-1グランプリ』の王者になるまでの長い道のりを、家族の歴史からたどる内容でした。
NHK北海道によると、番組では曽祖父の代までさかのぼって長谷川家の歩みが描かれました。
これまでのテレビ出演やインタビューでは、ほとんど語られてこなかった部分です。

そんな昔からの話なの?

4代さかのぼる家族史です
新潟から北海道へ渡った曽祖父
長谷川家のルーツをたどると、北海道ではなく新潟にたどり着きます。
番組では、長谷川雅紀さんの曽祖父が新潟から北海道へ渡った人物として紹介されました。
札幌生まれ札幌育ちというイメージの強い長谷川雅紀さんですが、家系の始まりは本州にあったことになります。
新潟から北海道へ渡った時期や、そこに至った事情については、放送後に公開されているNHKの番組情報からは読み取れません。
明治から昭和にかけては、本州から北海道へ移り住んだ人が数多くいた時代でした。
長谷川家の曽祖父も、その流れの中で海を渡った一人だったとみられます。
札幌・二条市場の土産物店
北海道へ渡った曽祖父は、札幌の二条市場で土産物店を開きました。
二条市場は、札幌市中央区にある歴史の古い市場です。
海産物を扱う店が軒を連ね、今も観光客が足を運ぶ場所として知られています。
NHKの番組ページでは、この土産物店が成功を収めたと紹介されています。
店の名前や創業した年、どのような品を並べていたのかまでは、放送後に公開されている情報からはたどれませんでした。
ここで気になるのが、長谷川家がその後どのような道をたどったのかという点です。
番組では、長谷川雅紀さんのお父さんが弁護士を目指しながら挫折し、事業にも失敗した経緯が描かれました。
曽祖父の代の成功から、一家が苦しい時期を迎えるまでの流れがつながる構成になっていました。
お父さんについては、次の章でくわしく見ていきます。
錦鯉長谷川雅紀の父親
長谷川雅紀さんのお父さんは一般の方です。
お名前や職歴の詳細は明らかになっていません。
ただ、長谷川雅紀さんがテレビ番組などで語ってきた内容から、親子の歩みは断片的に伝わってきました。
両親は長谷川雅紀さんが高校生の頃に離婚しています。
その後、長らくお父さんとは音信不通の状態が続きました。
お父さんが家を離れることになった背景は、『ファミリーヒストリー』で描かれています。

どうして離れちゃったの?

事業の失敗が転機でした
弁護士を目指していたお父さん
番組によると、お父さんは成績が優秀な人物でした。
目指していたのは弁護士です。
しかしその夢は叶わず、挫折することになりました。
その後、お父さんは結婚し、長谷川雅紀さんが生まれます。
ところが乗り出した事業がうまくいかず、一家は困窮することになりました。
NHK北海道によると、この事業の失敗をきっかけに、お父さんは気力を失って家を出たとされています。
弁護士の道を断念した具体的な事情や、手がけた事業の内容までは明らかになっていません。
曽祖父が二条市場の土産物店で成功を収めた一方で、長谷川雅紀さんが育った時期の家庭は苦しい状況にありました。
お母さんが珍味店やラーメン店、居酒屋と業態を変えながら働き続けた背景にも、こうした事情が重なっていたことになります。
離婚、そして2020年の別れ
両親が離婚したのは、長谷川雅紀さんが高校生だった頃です。
それから長い間、お父さんとの連絡は途絶えていました。
状況が変わったのは2017年頃のことです。
SmartFLASHによると、この時期から長谷川雅紀さんはお父さんと再び連絡を取るようになったと報じられています。
芸人として売れる前の、まだ苦しい時期でした。
そしてお父さんは2020年に亡くなっています。
錦鯉が『M-1グランプリ』で優勝したのは、その翌年の2021年でした。
優勝後、長谷川雅紀さんは「父には見せたかった。天国で見てくれていたら」と語っています。
再会からわずか数年で、最も届けたかった知らせを伝えられないまま別れが訪れたことになります。
なお、お父さんが亡くなった原因や、正確な離婚の時期は明らかになっていません。

M-1、見てほしかったね

本人もそう語っています
錦鯉長谷川雅紀の母親
長谷川雅紀さんのお母さんは、長谷川幸子さんといいます。
札幌市白石区で居酒屋「蓑屋」を営んでいる方です。
両親の離婚後、長谷川雅紀さんを育て上げたのは幸子さんでした。
芸人としての活動が23歳から始まり、名前が知られるまでにはそこから25年以上かかっています。
その長い年月を、幸子さんはずっと札幌から見守り続けてきました。
『ファミリーヒストリー』のサブタイトル「遅咲きの息子へ 母の思い」は、この歳月を指したものです。
「お金貸してくれ」しか言えなかった時代
売れない時期の長谷川雅紀さんにとって、頼れる相手はお母さんしかいませんでした。
札幌の実家にかける電話は、決まってお金の相談だったといいます。
「お金貸してくれ」という言葉ばかりを口にしていた時期が、長く続きました。
NHK北海道によると、40歳になっても芸人として芽が出ず、お金を無心してくる息子を、幸子さんは応援し続けたということです。
その間も居酒屋の仕込みと営業は毎日続いていました。
お店を切り盛りしながら、東京にいる息子に仕送りを続けていたことになります。
『ファミリーヒストリー』では、幸子さんが応援を続けた背景に「秘めた思い」があったと紹介されています。
その思いが具体的に何だったのかについては、放送後に公開されているNHKの番組情報からは読み取れません。

お母さん、すごすぎる…

25年以上支え続けました
M-1優勝のあとに変わった親子の関係
転機になったのは、2021年の『M-1グランプリ』優勝です。
よかった……(泣)
— ねとらぼエンタメ (@itm_nlabenta) December 20, 2021
「こんな日がくるなんて」 錦鯉の“最年長M-1王者”に長谷川の母、声震わせ歓喜 優勝後初の親子トークで「生んでくれてありがとう」https://t.co/wtwZOKVNaw pic.twitter.com/2neK99dOiN
優勝直後の親子トークで、幸子さんは「こんな日がくるなんて」と声を震わせました。
長谷川雅紀さんは「生んでくれてありがとう」と伝えています。
翌2022年1月には、優勝後はじめての里帰りが日本テレビ系『人生が変わる1分間の深イイ話』で放送されました。
相方の渡辺隆さんとともにお店を訪れた長谷川雅紀さんに、幸子さんは「頑張ったね」と声をかけたと伝えられています。
お店には優勝を祝う花やご祝儀が届いていたそうです。
同じ2022年の5月には、日本郵便の企画で長谷川雅紀さんがお母さんへ手紙を書く様子が公開されました。
手紙を読む幸子さんが何度もうなずく姿が話題になりました。
そして現在、お金の流れは逆になりました。
ブレイク後に収入が増えた長谷川雅紀さんは、お母さんへ仕送りを続けています。
2025年5月には、下積み時代を支えたお母さんへ感謝を伝える企画も放送されました。
それでも幸子さんは、今も「蓑屋」のカウンターに立ち続けています。
錦鯉長谷川雅紀の兄弟や姉妹
長谷川雅紀さんには、お姉さんと弟さんがいます。
3人きょうだいの真ん中という立ち位置です。
お姉さんとも弟さんとも、年齢差は2歳ずつだそうです。
上下ともきれいに2歳ずつ離れているという、少し珍しい並びになっています。
この環境で育った長谷川雅紀さんは、子供の頃「きょうだいは2歳ずつ離れているもの」だと思い込んでいたそうです。
友達から「お兄さんは6歳上」と聞かされて、心底びっくりしたというエピソードが残っています。

そんな勘違いある?

家庭が世界の全部でした
お姉さんも弟さんも一般の方です。
お名前やお仕事、顔写真といった情報は世に出ていません。
テレビ番組で長谷川雅紀さんが家族の話をする際も、きょうだいの存在に触れる程度にとどまっています。
両親が離婚したあとは、幸子さんが3人を育てることになりました。
お店を営みながら子供3人を送り出したことになり、当時の負担は相当なものだったとみられます。
なお、2022年に日本テレビ系で放送されたドラマ『泳げ!ニシキゴイ』では、長谷川家のきょうだいも登場人物として描かれました。
ただしドラマは長谷川雅紀さんの半生をもとにした作品です。
作中の役名や設定が、実際のお姉さん・弟さんの情報と一致するわけではありません。
まとめ
長谷川雅紀さんの実家は、札幌市白石区にある居酒屋「蓑屋」です。
お母さんの幸子さんが、20年以上にわたって切り盛りしてきました。
2022年9月に火災がありましたが、燃えたのは屋外の看板が中心で全焼ではありません。
けが人もなく、お店は今も営業を続けています。
家族をたどると、珍味店からラーメン店、そして居酒屋へと業態を変えながら暮らしを支えてきたお母さんの姿が見えてきます。
お父さんとは高校生の頃に離れ、再会したのは2017年頃のことでした。
その3年後にお父さんは亡くなり、『M-1グランプリ』優勝の知らせは届けられないままとなりました。
2026年8月8日に放送された『ファミリーヒストリー』では、こうした家族の歩みがさらにさかのぼって描かれました。
新潟から北海道へ渡った曽祖父、二条市場で成功した土産物店、そして弁護士を目指したお父さんの挫折。
事業の失敗で一家が困窮し、お父さんが家を出たという経緯も、この番組で明かされています。
23歳で芸人になり、50歳で頂点に立った長谷川雅紀さん。
その遅咲きの歩みは、札幌のカウンターに立ち続けたお母さんの存在があってこそのものだったのだと思います。
これからも、家族が安心して見守れる場所で輝き続けてほしいですね。
