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田中要次の出身高校や大学は?身長や年齢・若い頃や年収についても

田中要次の出身高校や大学は?身長や年齢・若い頃や年収についても 俳優
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大ヒット作『HERO』の出演がキッカケで「”あるよ”の人」と言われるようになった田中要次さんは、俳優としてドラマ、映画、バラエティー番組で活躍しています。

しかしブレイクする前は会社員や撮影スタッフなどを経験していたそうです。

今回は、そんな田中要次さんの経歴や出身学校について調べてみました。

田中要次の学歴

田中要次さんが通っていた学校について調べてみました。

田中要次の出身小学校

出身小学校については公表されていません。

長野県出身ということで県内のどこかの学校に通っていたのではないかと思われます。

幼少期はすごく地味な子だったそうですよ。

田中要次の出身中学

出身中学校も公表されていませんでした。

中学時代は放送部とバスケットボール部に所属し、昼休みの校内放送のアナウンサーをやっていました。

田中要次の出身高校

中学校卒業後は、長野県木曽山林高等学校に進学しています。

こちらの学校は、2007年に長野県木曽高等学校と統合し長野県木曽青峰高等学校となり、2009年3月31日をもって閉校しました。

田中要次さんが在籍していたのは林業科で、偏差値は40でした。

1年生の時に女子がいるという理由から演劇部に入部、しかし文化祭で『十二人の怒れる男』を元にした舞台で陪審員長役を演じたときに観劇していた不良生徒からの野次と中年を演じなければならなかった違和感に嫌気がさして、1年で退部しています。

その後は軽音楽部でロックバンドの活動を行っていました。

田中要次の出身大学

お父さんを早くに亡くしていた田中要次さんは、「家を守らなくちゃいけない」と言い聞かされていたため、高校卒業後は、進学せず就職しました。

地元で就職したこともあり、当時はずっと長野にいるものだと思って過ごしていたそうです。

田中要次のプロフィールや経歴

名前:田中要次
生年月日:1963年8月8日
出身地:長野県
血液型:A型
身長:178cm
所属事務所:ザズウ

周りの友人が「ミュージシャンになる」と言って上京目的で東京の大学に行った姿を見て「いつか東京に行きたい」と漠然と思っていたという田中要次さんは、この時役者になるとは決めていなかったそうです。

社会人として働いている日々の中で映画監督の山川直人さんの映画を観て感動し、出待ちをして交流を持つようになった時、山川直人さんから依頼されミュージックビデオ『佐木伸誘 / SEEK AND FIND』に出演しました。

この経験がきっかけで「こんな世界があるんだ」、「もう一回撮影現場に参加したい」という気持ちが高まったため、撮影隊の人達ともっと一緒にいるにはどうしたら良いかと考え始めたのです。

そんな時に交通事故を起こし、事故の処理をしている間に「何してても失敗したら終わりじゃないか。ならどうせ失敗するなら好きな事をやって失敗しよう」と考え、勤めていた会社をやめて上京しました。

1991年、照明技師の安河内央之さんに師事し、竹中直人さんが監督する『無能の人』の照明助手として参加、竹中直人さんの目に留まった田中要次さんは同作品にエキストラとして出演しました。

さらに同年の舞台『竹中直人の会 / 鉢植を持つ男』に舞台監督助手を兼ねて、神戸浩の代役としても参加、その後も職種を問わず、俳優だけでなく撮影スタッフとしても照明助手の他に録音助手、ドライバー、付き人なども経験しながら、数多くの映像製作に携わったそうです。

1994年、竹中直人さんが監督した『119』で、照明機材トラックの運転中に事故を起こした事をきっかけに、スタッフ業から退き、俳優に専念するようになったものの、1998年まではバイク便ライダーをやりながら生計を繋いでいました。

2001年にドラマ『HERO』にバーテンダー役でレギュラー出演した際の台詞「あるよ!」が話題となって人気を博し、これをきっかけにバラエティにも進出、現在は『ローカル路線バス乗り継ぎの旅Z』などにレギュラー番組しています。

2003年にはオムニバス映画『刑事まつり 一発大逆転』で短篇「窯岡刑事 / Coming Out Cop KAMAOKA」の監督を果たし、以降も『奪われた刑事 / Snatches』、『ドラムマンz バチがもたらす予期せぬ出来事』などを撮りました。

2017年、映画『蠱毒 ミートボールマシン』では映画初主演を務めています。

田中要次の若い頃はどんな感じ?

田中要次さんは、高校卒業後の1982年、日本国有鉄道(国鉄)長野鉄道管理局に就職しました。

最初の勤務地は中央本線塩尻駅構内にあった上諏訪保線区塩尻支区だったそうです。

その後1987年の国鉄分割民営化にともない、東海旅客鉄道(JR東海)の社員となり、東海鉄道事業本部傘下の岡崎保線区に配属され、東海道本線大府駅や安城駅構内の職場に勤務しました。

この頃から映画館に通い、愛知、岐阜、三重県を渡り歩いて地元の映画上映サークルと交流を深めていたそうですよ。

東京に行くため、1990年12月8日にJR東海を退職しました。

田中要次の年収

田中要次さんの年収は公表されていません。

東京に上京してから俳優としてブレイクするまでの時代はほとんど稼げなかったと思いますが、現在は主役としての作品は少ないものの脇役としてドラマ、映画で引っ張りだこの俳優になっています。

まだバラエティー番組でも活躍し、映画監督としての顔も持っています。

そのため年収は数千万円以上はあるのかもしれませんね。

まとめ

俳優としては遅咲きスタートでしたが、「あるよ」の台詞が田中要次さんの俳優人生を大きく変えました。

これからも田中要次さんの活動に目が離せません。

俳優
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