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新庄剛志の出身中学や高校・身長や年齢・引退理由なども調べてみた

新庄剛志の出身中学や高校・身長や年齢・引退理由なども調べてみた 野球

日本ハムの指揮を執ることになり、注目されている新庄剛志新監督。

現役時代も引退後も、発言や行動で注目を集めていた新庄剛志さんが、監督をするということで、様々な期待をしている人がたくさんいることでしょう。

今回は、そんな新庄剛志さんの学歴やプロフィール、引退理由について調べてみました。

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新庄剛志の学歴

新庄剛志さんのプロ入りまでの通っていた学校について調べてみました。

新庄剛志の出身小学校

新庄剛志さんの出身小学校は、地元の福岡市立長丘小学校です

なんと新庄剛志さん、小学校でははじめサッカーを習っていました。

そのことから身体能力は高く、上達が早かったようです。

その後、ソフトボールを経験し、野球へと移っていきます。

小学校5年生の時には自ら野球チームを立ち上げて、エースで4番を打っていました。

ちなみに、新庄剛志さんはその活発さのためか、小学校時代だけで8回も交通事故に合っています

しかし、幸いすべて軽傷で済んでいたため、野球を続けられてました。

強運なのか、類まれ運動能力の片鱗を見せていたのか、常人では考えにくいところですね。

新庄剛志の出身中学

新庄剛志さんは小学校卒業後、小学校のすぐ隣にあり福岡市立長丘中学校へ進学しました。

部活では軟式野球部に所属し、活躍していました。

小学生時代は交通事故に、何度も合って軽傷で済んでいた新庄剛志さんですが、中学時代では2年生の時に左手を15針も縫う大けがをしてしまいました。

幸い後遺症等はなかったようですが、利き手の右手をけがしていたと思うとぞっとします。

新庄剛志の出身高校

新庄剛志さんは西日本短期大学付属高校へ進学します

西日本短期大学付属高校は、野球や女子バレーの強豪校として知られており、甲子園大会にも何度も出場している高校です。

また、プロ野球選手も多く輩出しています。

新庄剛志さんは、そんな西日本短大付属高校ではもちろん野球部に所属し、寮生活を送っていました。

高校3年生の時に、予選大会決勝まで勝ち進むも残念ながら新庄剛志さんが甲子園に出場することはできませんでした。

そして、卒業後の進路が九州産業大学への推薦入学が決まっていましたが、ドラフト会議で阪神タイガースに指名を受け、ドラフト5位で入団。プロ野球選手としての人生を歩み始めました。

新庄剛志のプロフィールや経歴

PROFILE

本名:新庄剛志
別名:SINJO(日ハム選手時代)
生年月日:1972年1月28日
年齢:49歳
身長:181㎝
体重:76㎏
出身地:長崎県下県郡美津島町(現津島市)生まれ
    福岡県福岡市南区育ち
投打:右投げ右打ち
ポジション:外野手・外野手

新庄剛志さんは長崎生まれの福岡育ち。

甲子園の出場経験はないものの高卒で阪神タイガースに入団しています。

プロ野球での所属チームは以下の通りです。

  • 阪神タイガース(1990~2000年)
  • ニューヨークメッツ(2001)
  • サンフランシスコジャイアンツ(2002年)
  • ニューヨークメッツ(2003年)
  • 北海道日本ハムファイターズ(2004~2006年)

新庄剛志さんは、日本ハムの印象が強いですが、一番長く所属した球団は阪神タイガースです。

大リーグでは、サンフランシスコジャイアンツ時代に日本人で初めてワールドシリーズに出場し、ヒットを放つ活躍をしています。

プロ野球選手を引退した後は、会社を設立し実業家として活躍したり、バリ島へ移住したりして度たび話題となりました。

48歳で現役復帰を目指してトライアウト挑戦

そんな新庄剛志さんが、再び大きな話題となったのが、2020年のプロ野球12球団合同トライアウト(入団オーディションのようなもの)への参加です。

これは、ネタや話題作りといったものではなく、都内に一戸建ての家を借りて屋上で練習をし、体を仕上げて挑戦するという、とてもまじめな挑戦でした。

プロ野球では、50歳で先発登板を果たした元中日投手の山本昌さんがいましたが、48歳でのトライアウト参加は前代未聞であり、メディアでも多く取り上げられました。

そんな挑戦をした理由について、二つ語っています。

まず1つは、子供たちに夢と希望をもたせたかったということです

新庄剛志さんはトライアウトへの参加を表明した際に、

「みんな夢はあるかい? 1%の可能性があれば必ずできる。今日からトレーニングを始めてもう1回プロ野球選手になろうと思います。みんなもなにか挑戦しようぜ!」

と、Instagramに投稿しています。

子供たちに、真剣に挑戦をしている自分の姿を見せたかったのです。

そして、もう一つが難病と闘病する姉のためと話していました。

自分が新しいことに挑戦すること、再びプロ野球のユニフォームを来ていることを見せて、姉を勇気づけたかったようです。

ファン、そして家族への思いやりや勇気づけなど、まさにスターの姿を示すための挑戦だったのです。

日本ハムファイターズの監督(ビッグボス)就任

そして今年の11月4日、日本ハムの監督に就任しました。

就任会見でいきなり自身を「監督ではなくビッグボスと呼んでくれ」と発言し世間を驚かせました。

コーチとして選手を指導した経験のない新庄剛志さんに監督を任すというのは異例なことです。

2021年シーズン最下位と低迷している日ハムにとって、新庄監督(ビッグボス)という新しい風を入れることで、成績の浮上を狙ったことでしょう。

新庄剛志が引退した理由

そんな、記録にも記憶にも、残る選手であった新庄剛志さんですが、引退の時も世間を驚かせました。

2006年のシーズン序盤、4月18日に第一号ホームランを打った際に、その打席を「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と名付けて突然引退を宣言

当時、主力中の主力選手だった新庄剛志さんですので、球団からの遺留やファンからの著名活動もありましたが、結局撤回することなく、2006年シーズンを最後に引退しました。

引退の理由としては、体調面の問題で「動体視力の低下(もともと遺伝性の病気で視力が低下していた)」、「守備能力の衰え」、「左太ももの故障」を挙げています。

打者としてだけでなく、守備にもこだわりを持っていた新庄剛志さんですので、全力で最善の守備を出来ないことが許せなかったようです。

また、別の理由として、「開幕戦観客満員を達成」したこともありました

新庄剛志さんが日ハムに移籍した2004年は、日本ハムの本拠地を東京から北海道札幌に移転した年でした。

そんな札幌で日ハムの人気を定着させることが新庄剛志さんにとっての一つの大きな課題だったのです。

それが達成されたことで、悔いなくユニフォームを脱ぐ決心が出来たようです。

まとめ

現役時代から世間の話題を集めていた新庄剛志さん。

今度は指導者として、ビッグボスとしてどんな活躍をしていくのでしょうか。

新庄剛志さんのこれからの動向に注目です。

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