歌舞伎界きっての高身長と存在感で知られる坂東彌十郎さん。
時代物でも世話物でも自在に役をこなすその姿は、多くの観客を惹きつけていますよね。
そんな彌十郎さんは、一体どんな家庭で育ち、どんな家族に囲まれてきたのでしょうか。
実はその家系をたどると、歌舞伎史を彩る名だたる人物がずらり。
まさに芸の血を受け継ぐ一族なんです。
舞台上の凛々しさの裏には、家族の支えと芸を磨き続ける環境がありました。
ここでは、坂東彌十郎さんの曽祖父から息子さんまで続く華麗な家系の物語を紐解いていきましょう。
坂東彌十郎の家系図がすごい!
曽祖父の十二代目守田勘彌さんは、江戸から明治へ移る大転換期に座元として劇場経営と上演を牽引した名興行師。
新富座の名は今も芝居史に刻まれ、興行の舵取りと俳優の地固め、どちらにも才を見せた方なんですよね。
祖父の十三代目守田勘彌さんは、古典はもちろん新歌舞伎や翻訳劇にも果敢に挑み、芸域の広さで観客を魅了。
時代の呼吸を読み、歌舞伎の表現を更新していく姿勢が語り継がれています。
お父さんの坂東好太郎さんは、若き日に歌舞伎の名跡を名乗り、のちに映画界で大スターへ。
再び舞台へ戻ってからも存在感は圧巻で、銀幕と檜舞台の往還で培ったスケール感は、家庭の空気にも自然と流れ込んでいたのでしょう。
そんな環境で育った坂東彌十郎さんは、長身を生かした立ち姿と、世話物から時代物まで自在にこなす器用さが持ち味。
家の記憶に甘えず、師の教えを刻みながら自分の芸を積み上げてきた歩みが、今の説得力につながっています。
息子の坂東新悟さんも舞台に立ち、女方として端正な型と気品ある所作で注目を集めています。
曽祖父から四代にわたり受け継がれる屋号と心得。
伝統は血縁に宿りつつ、稽古で磨かれるものだと実感しますよね。
系図を一本の幹にたとえるなら、勘彌さんの興行力、好太郎さんの大舞台感覚、彌十郎さんの柔らかな実直さ、新悟さんの品位が年輪のように重なっている感じ。
過去と現在が舞台の上で出会う、その景色がこの家の強さです。
坂東彌十郎の本名
坂東彌十郎さんの本名は「本間寿男(ほんまひさお)」さんです。
舞台上では堂々たる立ち姿で知られる彌十郎さんですが、その本名からはどこか柔らかな印象を受けますよね。
幼い頃から歌舞伎の世界に囲まれながらも、一般的な名前で生活していた時期があったことを思うと、舞台と日常の間にある静かなギャップが感じられます。
名前の由来については公には語られていませんが、古風で品のある響きからは、家族の願いやご両親の思いが込められているのではないでしょうか。
舞台上での「坂東彌十郎」という名は、師弟関係と伝統の継承を象徴する芸名。
一方の「本間寿男」という本名には、等身大の人間・本間さんとしての温かさが宿っています。
華やかな芸名の裏にある本名を知ると、坂東彌十郎さんという人がどれほど誠実に芸と向き合ってきたか、少し垣間見えるような気がしますね。
坂東彌十郎の父親は歌舞伎役者ではなかった
坂東彌十郎さんのお父さん、坂東好太郎さんは、映画と歌舞伎の両方で輝きを放った稀有な存在でした。
1922年に澤村健太郎として初舞台を踏み、わずか2年後には「坂東好太郎」を名乗り歌舞伎の世界へ。
ところがその後、時代の波を読み取るように映画界へと転身します。
20歳という若さで松竹下加茂撮影所の専属俳優となり、『世直し大明神』で銀幕デビューを果たしました。
林長二郎さん(のちの長谷川一夫さん)や高田浩吉さんとともに「下加茂の三羽烏」と称され、当時の日本映画界を代表するスターとして人気を集めた好太郎さん。
端正な顔立ちと伸びやかな立ち回りで、多くの時代劇ファンを魅了したといいます。
しかし映画界での成功に満足することなく、1962年、八代目坂東三津五郎さんの襲名披露をきっかけに再び歌舞伎の舞台へ。
映像の世界で培った表現力を舞台上に昇華させ、円熟味ある芝居で観客を引き込みました。
その姿勢には、芸への深い愛情と矜持が感じられますよね。
1981年11月28日、70歳でこの世を去りましたが、坂東好太郎さんの生き方はまさに「二つの舞台で生き抜いた役者」。
映像と歌舞伎、二つの芸の世界を橋渡ししたその足跡は、今も坂東彌十郎さんの中に確かに息づいているのではないでしょうか。
坂東彌十郎の師匠
坂東彌十郎さんが歌舞伎の道へ進んだとき、最初に師事したのは名優・八代目坂東三津五郎さんでした。
端正な芸と粋な立ち回りで知られた三津五郎さんのもとで、基礎から徹底的に鍛えられた日々。
まだ若かった彌十郎さんにとって、その教えは今でも心の支えになっているのではないでしょうか。
ところが運命は思いがけず厳しく、1975年に八代目坂東三津五郎さんが急逝。
深い悲しみの中で次に身を寄せたのが、十四代目守田勘彌さんの門でした。
しかしその勘彌さんもわずか2か月後に亡くなり、再び師を失うという過酷な経験を味わうことになります。
次々と師を見送る若き日の彌十郎さんの胸中を思うと、胸が締め付けられますね。
それでも歩みを止めず、1983年には三代目市川猿之助さんのもとへ。
以降15年にわたり、型と構成、そして芝居における「心の動き」を叩き込まれました。
猿之助さんの革新的な演出と、徹底した稽古の精神は彌十郎さんの中で大きな糧となり、現在の幅広い演技力につながっています。
複数の師を経たことで、坂東彌十郎さんは伝統と革新、両方の感性を自然に身につけたのでしょう。
受け継いだ芸の教えは血縁だけでなく、師弟の絆によっても脈々と続いていることを改めて感じますね。
坂東彌十郎の母親
坂東彌十郎さんのお母さんは、女優としてその名を残した飯塚敏子さんです。
1914年6月8日に生まれ、松竹時代劇で数々の出演を重ねた活躍ぶりは、歌舞伎界に育つ彌十郎さんの芸風にもしっかり影響を与えていたでしょう。
生涯において映画、舞台双方で存在感を放ち、1991年12月14日に77歳でこの世を去られています。
敏子さんが築いた佇まいと厳しさ、そして優しさの両立は、彌十郎さんが舞台で見せる立ち姿の奥に脈々と息づいていると思われます。
坂東彌十郎の兄弟
坂東彌十郎さんは三人兄弟の三男。
幼い頃から家の中に芸の空気が満ちており、兄たちの稽古や舞台の話が日常の会話に混ざる環境で育ったと考えられます。
血筋だけでなく、家族の会話そのものが芸の学校だったのでしょう。
兄の一人、二代目・坂東吉彌さんは上方歌舞伎を支えた名脇役として知られる存在。
花道を受け止める腰の据わりと、出過ぎないのに場を締める呼吸で、物語の骨格をそっと補強するタイプの役者でした。
彌十郎さんはブログで、吉彌さんが“異母兄弟で19歳差”であったことを明かしています。
年の離れた兄は時に厳しく、時に温かく、家の中で最初の「師匠」のような存在。
舞台での礼儀や立ち居振る舞い、稽古への向き合い方を、背中で示してくれたのでしょう。
お父さんを見送ったのち、家の要となった吉彌さんは、弟に対して父親代わりのまなざしを注いだといいます。
叱るときは理由が明確で、褒めるときは短く端的。
役者としての矜持を自然体で伝える、その距離感が心地よかったのではないでしょうか。
関西で培われた吉彌さんの“間”と“呼吸”は、彌十郎さんの舞台にも確かに影を落としています。
台詞を急がず、観客の想像が一歩先に進む余白を残す——兄ゆずりの職人感覚が、彌十郎さんの広い役柄適性に通じているように感じます。
もう一人の兄について公に語られる機会は多くありませんが、三人兄弟というバランスが家族内の役割分担を自然に生み、弟の挑戦を後押しする空気を作ったはず。
舞台人の家では、誰もが少しずつ「支える役」を演じています。
結果として、彌十郎さんは兄たちから“芸は生活の延長線上にある”という感覚を受け継ぎました。
派手な逸話よりも、毎日の積み重ねを尊ぶ姿勢。
それが長身の立ち姿に宿る落ち着きと、役幅の広さにつながっているのでしょう。
まとめ
曽祖父の守田勘彌さん、祖父の勘彌さん、お父さんの坂東好太郎さん——舞台と銀幕を往来した家の記憶を背に、坂東彌十郎さんは自分の足で芸を積み上げてきました。
師の教えを胸に、兄たちの背中に学び、そして息子の坂東新悟さんへと受け継ぐ流れも頼もしいですよね。
伝統は形だけでなく、稽古と日常の所作に宿るもの。
これからも等身大の誠実さで観客の心をほどき、歌舞伎の面白さをそっと広げてくれるはずです。

