日本の芸能史に名を刻む名女優・中村メイコさん。
わずか2歳で子役デビューを果たし、以降80年以上にわたり第一線で活躍し続けました。
圧倒的な演技力と明るいキャラクターで多くの人々を魅了し、女優業のみならず、タレントや作家としても幅広い才能を発揮してきました。
そんな中村メイコさんですが、学歴は「小学校卒」とも言われており、幼い頃から芸能界一筋の人生を歩んできたようです。
一体どんな幼少期を過ごしたのでしょうか?また、芸能界入りのきっかけとなったご両親の存在も気になりますね。
父親や母親はどんな人だったのか、兄弟姉妹はいるのかなど、中村メイコさんの家族についても調査しました。
この記事では、中村メイコさんの学歴や本名、そして実家や家族構成について詳しくご紹介します。
彼女の知られざる素顔を一緒に探ってみましょう!
中村メイコは天才子役と呼ばれていた
エノケンの孫悟空一行を脅かす天才子役中村メイコ pic.twitter.com/nfEFM036n2
— L.A.H. (@LAH00556484) March 12, 2020
中村メイコさんは、わずか2歳で映画デビューを果たし、「天才子役」として脚光を浴びました。
デビュー作は、1940年公開の映画『江戸っ子健ちゃん』。
中村メイコさんが演じたのはフクちゃん役で、その愛らしい姿と堂々とした演技が関係者の目に留まりました。
子役としての道が開かれたきっかけは、父・中村正常(なかむら せいじょう)さんの存在でした。
脚本家であり、映画監督としても活躍していた父親は、幼い娘を抱き上げた写真を撮影し、その写真が雑誌に掲載されたのです。
偶然にもそれを目にした映画関係者が「この子は将来スターになる」と確信し、映画出演が決定しました。
まさに運命的な出会いでした。
デビュー後は、次々と出演依頼が舞い込むほどの人気ぶりでした。
その魅力は、単なる可愛らしさだけではなく、驚くほどの演技力と表現力にありました。
特に、中村メイコさんの「7つの声を使い分ける才能」は、当時の大衆を驚かせました。
これは、浪曲師・2代目天中軒雲月(てんちゅうけん うんげつ)さんの名調子になぞらえられたもので、喜怒哀楽を瞬時に表現できる天性のセンスが評価されていました。
また、子役時代から堂々とした受け答えができることでも有名で、インタビューでは大人顔負けの発言をして周囲を驚かせることもあったそうです。
映画だけでなく、ラジオや舞台にも進出し、幼いながらもすでにマルチな才能を発揮していました。
戦後、日本映画界が復興する中で、子役スターとしての地位を不動のものにしていきました。
中村メイコさんの活躍は、当時の日本人にとって希望の光であり、その姿に励まされた人も多かったのではないでしょうか。
やがて成長してからも、子役のイメージにとらわれることなく、幅広いジャンルで活躍を続けていきました。
幼い頃から培われた演技力や表現力は、その後の長い芸能人生において大きな強みとなり、日本を代表する名女優へと成長していったのです。
中村メイコは美空ひばりと親友だった
#tama954 「ザ・ガードマン」より。美空ひばりと中村メイコさんの貴重な共演シーン。 pic.twitter.com/KW2wQ1bPhr
— ★彡彡★ 🌊 (@mari_fortepiano) November 9, 2021
中村メイコさんと美空ひばりさんは、幼い頃から芸能界で活躍してきた同世代のスターでした。
しかし、最初から親友同士だったわけではありません。むしろ、初対面の印象はあまり良くなかったそうです。
当時、中村メイコさんは天才子役、美空ひばりさんは天才歌手として注目されていましたが、性格も環境も違いすぎるため、すぐに打ち解けることはありませんでした。
特に美空ひばりさんに対して、「大人ぶった気味の悪いやつ」と感じたことを中村メイコさん自身が明かしています。
しかし、芸能界という特殊な世界で生き抜く中で、少しずつ心の距離が縮まっていきました。
本当の意味で親しくなったのは、大人になってからでした。
仕事を通じて再会し、共演を重ねるうちに、互いの悩みや苦しみを分かち合える特別な存在になっていったのです。
特に美空ひばりさんが小林旭さんと離婚した後、2人の絆はさらに深まりました。
美空ひばりさんは、豪華な家を持ちながらも心からくつろげる場所がなかったと言われています。
そんな中で、中村メイコさんの家をたびたび訪れるようになり、家庭的な温かさに触れる時間を大切にしていました。
芸能界のトップスターとして華やかな生活を送る一方で、孤独を感じることも多かった美空ひばりさんにとって、中村メイコさんの存在は心の支えになっていたのです。
2人の友情の証として、中村メイコさんは1989年に美空ひばりさんが亡くなった際、「唯一無二の親友だった」と語っています。
公の場で涙を見せることが少なかった中村メイコさんですが、美空ひばりさんの死を悼んだ際は、深い悲しみに暮れていたと言われています。
芸能界という厳しい世界で長年生き抜いてきた2人だからこそ、表には見せない苦労や悲しみを分かち合えたのでしょう。
中村メイコさんと美空ひばりさんの友情は、単なる芸能界の交友関係を超えた、まさに「唯一無二」のものだったのです。
中村メイコのプロフィールや経歴
[MANTANWEB] 中村メイコ:“終活”で唯一捨てられなかったものは親友・美空ひばりさんの遺品 明日の「徹子の部屋」 https://t.co/izdJtlkZGw pic.twitter.com/gwsgBWqukz
— オタカルニュース♪ リリウム (@liliumnews) September 26, 2021
名前:中村メイコ
生年月日:1934年5月13日
出身地:東京都
血液型:O型
身長:153cm
所属事務所:ホリプロ
1934年(昭和9年)5月13日生まれの中村メイコさんは、2歳で芸能界デビューし、80年以上にわたって活躍した名女優です。
女優業だけでなく、歌手、司会者、声優、エッセイストとしても多才ぶりを発揮し、日本の芸能界を牽引する存在として愛され続けました。
1937年公開の映画『江戸っ子健ちゃん』でスクリーンデビュー。
父・中村正常さんが映画監督・脚本家だったこともあり、幼少期から芸能の世界に触れていました。
可愛らしいだけでなく演技力にも優れた子役として瞬く間に注目を集め、戦前から戦後にかけて数多くの映画に出演しました。
成長してからも映画やテレビドラマで活躍し、昭和を代表する女優の一人となりました。
特に以下の作品が有名です。
- 『ザ・ガードマン』(1965年〜1971年)
- 『銭形平次』(1972年)
- 『時間ですよ』(1970年代)
- 『寺内貫太郎一家』(1974年)
持ち前の明るいキャラクターと抜群の演技力で、多くの視聴者に親しまれました。
1955年には歌手デビューし、代表曲『田舎のバス』が大ヒット。
ユーモアのある歌詞と軽快なメロディが人気を博し、今でも懐メロとして親しまれています。
また、1959年から1961年までの3年間にわたり『NHK紅白歌合戦』の紅組司会を担当。
当時の紅白は国民的番組として絶大な人気を誇っており、司会を務めることは大きな名誉でした。
中村メイコさんの明るく流れるようなトークは視聴者からも好評で、紅白の歴史に名を刻みました。
声優としても活躍し、以下のアニメ映画に出演しました。
- 1967年公開『少年ジャックと魔法使い』(ジャック&キキ役)
- 1970年公開『みにくいアヒルの子』(みにくいアヒルの子役)
個性的で表情豊かな声が、アニメ作品にも命を吹き込みました。
1957年、作曲家の神津善行(こうづ よしゆき)さんと結婚。
二人の間には3人の子どもが生まれ、長女・神津カンナさん(作家)、長男・神津善之介さん(画家)、次女・神津はづきさん(女優)と、それぞれの分野で活躍する才能あふれる家庭を築きました。
家族の絆が深く、「神津ファミリー」として親しまれていたことでも知られています。
長年にわたり芸能界で活躍し続け、晩年もテレビやイベントに積極的に出演。
明るく軽妙なトークで多くの人を楽しませていました。
2023年(令和5年)には、長年の功績が称えられ「名誉都民」に選ばれました。
しかし、そのわずか3か月後の2023年12月31日午後10時45分、肺塞栓症のため東京都内の病院で死去。享年89歳でした。
亡くなる6日前の12月25日には『徹子の部屋』の番組収録を行っており、これが最後の仕事となりました。
最期は、夫の神津善行さん、3人の子ども(神津カンナさん・神津はづきさん・神津善之介さん)、そして孫たちに見守られながら穏やかに息を引き取ったと報じられています。
80年以上にわたり芸能界をけん引し、日本のエンターテインメント界に多大な影響を与えた中村メイコさん。
その明るい笑顔と温かい人柄、幅広い才能は、これからも多くの人々に語り継がれることでしょう。
日本の昭和・平成の芸能史を彩ったレジェンドとして、その功績は決して色あせることはありません。
中村メイコの本名や芸名の由来
中村メイコさんの本名は「神津五月(こうづ さつき)」さんです。
結婚後の姓は「神津」ですが、旧姓は「中村」で、芸名の「中村メイコ」は旧姓を活かした名前になっています。
もともとの芸名は「中村メイ子」と表記されていましたが、後に現在の「中村メイコ」に変更されました。
この芸名の由来は、本名の「五月(さつき)」に関係しています。
- 幼少期から家族や周囲の人々に「さつき」ではなく「メイコちゃん」と呼ばれていた
- 5月(May)を英語読みし、そこに親しみやすさを加えた「メイコ」になった
幼い頃から親しまれていた愛称が、そのまま芸名として定着した形になります。
芸能界に入る前からすでに「メイコちゃん」という名前が浸透していたため、自然と芸名として使われるようになったのでしょう。
また、「メイコ」という響きは可愛らしく覚えやすいこともあり、子役としてデビューする際にもぴったりの名前だったのではないでしょうか。
実際に、子役時代から「天才子役」として注目を浴び、親しみやすいキャラクターで人気を集めました。
旧芸名の「中村メイ子」から現在の「中村メイコ」への変更は、漢字よりも平仮名のほうが柔らかい印象になり、視認性や覚えやすさを重視した可能性があります。
特に、バラエティ番組や司会業など、幅広い分野で活躍する中で、より親しみやすいイメージを持たせるためだったのかもしれません。
本名の「五月」という名前から生まれた「メイコ」という芸名は、幼少期からの自然な流れでつけられた愛称だったため、芸能界に入ってからも違和感なく定着したのでしょう。
中村メイコの年収
中村メイコさんの具体的な年収は公表されていませんが、80年以上の芸能活動を続け、女優・歌手・司会・声優・エッセイストとして幅広く活躍していたことから、収入は多岐にわたっていたと考えられます。
主な収入源としては、まずテレビ出演料が挙げられます。
『ザ・ガードマン』『銭形平次』『寺内貫太郎一家』など数々の人気ドラマに出演し、全盛期には安定した収入を得ていた可能性があります。
さらに、1959年から3年間にわたって『NHK紅白歌合戦』の紅組司会を担当しており、司会業のギャラも相当なものだったと考えられます。
晩年もトーク番組やバラエティ番組に出演しており、テレビからの収入は一定の額を維持していたでしょう。
次に映画・ドラマの出演料も大きな収入源の一つでした。
子役時代から数多くの作品に出演し、長年にわたり第一線で活躍。出演作の再放送や映像販売による収益も見込まれます。
また、歌手活動や印税収入も重要な要素でした。
1955年に発表した『田舎のバス』は大ヒットを記録し、カラオケやCDの売上による印税が継続的に発生していたと考えられます。
さらに、エッセイストとしても活躍し、多くの書籍を執筆。著作の印税も安定した収入の一部となっていたでしょう。
声優業としても、アニメ映画『少年ジャックと魔法使い』や『みにくいアヒルの子』に出演しており、ナレーションの仕事もこなしていました。
声優業界のギャラは当時それほど高額ではなかったものの、長く続けたことで一定の収入につながっていたと考えられます。
こうした複数の収入源を持っていたことから、全盛期には数千万円から1億円規模の収入を得ていた可能性があります。
晩年もメディア出演や執筆活動を続けていたため、引退後も数百万〜数千万円規模の年収を維持していたと推測されます。
中村メイコの学歴は小学校卒?
中村メイコさんの最終学歴は、新宿区立市谷小学校卒業です。
子役として早くから活躍していたことに加え、父・中村正常さんの教育方針も影響し、中学校には進学していません。
当時、日本は戦時中であり、1941年(昭和16年)には戦争教育が本格化しました。
これに伴い、学校教育の内容が大きく変化し、父親が「今の学校では本当に必要な教育を受けられない」と考えたことが、一つの理由だったとされています。
また、すでに芸能界での仕事が忙しく、小学校にもあまり通えていなかったことも影響しました。
小学校卒業後は、中学校には進学せず、父からマンツーマンで教育を受ける形を選択しました。
中村正常さんは映画監督・脚本家であり、非常に博識だったことから、独自の教育を行っていたようです。
学校に通わない分、自宅で文学や芸術、社会情勢などについて学ぶ機会が多かったと言われています。
中学・高校・大学へ進学することはありませんでしたが、その後の人生で培った知識や経験、幅広い交友関係により、知的で教養あふれる人物としても知られていました。
芸能界だけでなく、作家や司会者としての活動においても、豊富な話題や語彙力の高さが評価されており、学歴にとらわれない才能を発揮し続けました。
中村メイコの父親
中村メイコさんの父親は、小説家・脚本家の中村正常(なかむら せいじょう)さんです。
新劇運動や新聞記者としても活動し、多方面で才能を発揮した人物でした。
ユーモアと独自の感性を持ち、中村メイコさんの芸能界入りにも大きく関わりました。
中村正常さんは、1927年に『不同調』に登場し、阪中正夫さん、阿部正雄さんらとともに『悲劇喜劇』の編集に携わりました。
また、1929年の第2回『改造』懸賞戯曲に「マカロニ」が当選し、脚本家としての才能が認められました。
1931年には讀賣新聞社に入社し、記者の記事を面白く書き直す仕事に従事しながら、新劇運動にも参加しました。
劇作家としても活躍し、「ボア吉の求婚」「隕石の寝床」などのナンセンスユーモア作品を発表。
これらの作品は、軽妙でユーモアあふれる作風が特徴で、後のテレビ・映画界にも影響を与えました。
また、教育にも独自の考えを持っており、戦時中の学校教育に疑問を抱いたことから、中村メイコさんを中学校に進学させず、家庭でマンツーマンの教育を施したことでも知られています。
このような自由で創造的な環境が、中村メイコさんの豊かな表現力や明るいキャラクターを育んだのかもしれません。
映画やテレビ業界とも関わりが深く、子役だった中村メイコさんが2歳で映画デビューを果たした背景には、父親の影響があったとされています。
結果的に、中村正常さんの文学的才能や独特のユーモアセンスは、中村メイコさんの芸能人生にも大きな影響を与えたと言えるでしょう。
中村メイコの実家
中村メイコさんの実家は、東京府(現在の東京都)にありました。
父・中村正常さんは小説家・脚本家として活躍し、知的でユーモアあふれる家庭環境の中で育ちました。
芸能界に入るきっかけも、父の影響が大きかったとされています。
太平洋戦争中は奈良県生駒郡富雄村(現在の奈良市富雄地区)に疎開していたことが知られています。
これは、父が「奈良は文化財が多く、爆撃を受ける可能性が低い」と考えたためでした。
当時、東京は空襲の被害を受けるリスクが高く、多くの家庭が地方へ疎開する選択をしていましたが、中村家も例外ではなかったようです。
戦後は再び東京に戻り、実家も東京に構えていたようですが、詳しい場所については公表されていません。
ただし、家族全員が文化・芸能関係の仕事に携わっていたことから、住まいは比較的文化的な環境が整った地域だったのではないかと考えられます。
また、1957年に作曲家の神津善行さんと結婚し、その後は「神津ファミリー」としても知られる芸能一家を築きました。
結婚後は東京都内の自宅で家族とともに暮らし、晩年まで芸能活動を続けていました。
中村メイコの母親
中村メイコさんの母親は、著述家の中村チエコさんです。
執筆活動をしながら家庭を支え、子育てにも熱心な人物でした。
代表作として『おチエさんの老青春を生きる』を出版しており、年齢を重ねても前向きに生きる姿勢を発信していました。
家庭では、中村メイコさんにしっかりとした生活習慣を身につけさせることを大切にしていたようです。
子役として多忙だったにもかかわらず、家に帰ると母親の手伝いをするのが当たり前だったといいます。
洗濯、料理、掃除など、一通りの家事をこなせるように育てられたこともあり、インタビューでは「結婚した時は、その日から家事に関しては何一つ困らなかった」と語っていました。
また、母親の中村チエコさんは、単に家事を教えるだけでなく、人としての礼儀や立ち居振る舞いもしっかりと指導していたようです。
芸能界という特殊な環境で生きる娘にとって、家庭でのしつけや教育は重要な支えとなったのではないでしょうか。
文筆活動を続けながら家庭を切り盛りし、娘を立派に育て上げた中村チエコさんの存在は、中村メイコさんの人生において大きな影響を与えたことは間違いありません。
中村メイコの兄弟や姉妹
中村メイコさんはひとりっ子で、兄弟や姉妹はいませんでした。
父・中村正常さんは小説家・脚本家、母・中村チエコさんは著述家という家庭環境の中で、一人っ子として大切に育てられました。
学校にはあまり通えなかったため、幼少期は同年代の友達と接する機会が少なかったといいます。
特に戦時中は疎開生活を送っていたこともあり、周囲の子どもたちと遊ぶことよりも、家庭内での時間を過ごすことが多かったようです。
しかし、家の中では両親から文学や芸術について多くのことを学び、知的な環境で育ちました。
父親からは映画や脚本についての知識を、母親からは家事や生活の知恵を教わり、学校教育とは違う形で幅広い学びを得ていたと考えられます。
また、芸能界に入ってからは、多くの共演者やスタッフと接する機会が増え、幼少期の孤独を感じさせないほどの交友関係を築いていきました。
特に美空ひばりさんとは大人になってから親友となり、深い友情を育んだことでも知られています。
ひとりっ子でありながら、芸能界という大きな世界で多くの人々に囲まれ、愛され続けたことが、中村メイコさんの人生をより豊かにしたのかもしれません。
まとめ
お父さんとの写真をきっかけに芸能界入りした中村メイコさんは、天才子役として注目を集め、多くの作品に出演しました。
NHKにはテレビ本放送開始以前のラジオ時代から出演し、昔のテレビを語る上で欠かせない存在とも言われています。
そんな中村メイコさんの今後の活躍も応援していきたいと思います。