記事内にPRが含まれています。

山田洋次の出身高校や大学は?実家は豊中?父親と母親兄弟についても

yamadayoji_family 映画監督
スポンサーリンク

多数の映画で日本アカデミー賞やキネマ旬報賞を受賞し日本を代表する映画監督の1人である山田洋次さんは、映画監督になるまでどんな日々を過ごしてきたのでしょうか。

どんな家庭で生まれ育ち、どこの学校に通っていたのでしょうか。

今回は、山田洋次さんの出身学校や家族について調べてみました。

山田洋次の学歴

山田洋次さんが通っていた学校について調べてみました。

山田洋次の出身小学校

山田洋次さんは、大田区立池雪小学校出身です。

1年~3年生のときには落語に熱中していました。

ある時山田洋次さんがジフテリアを患い明日の命も危ぶまれた際、憐れんだお父さんから何でも好きな物を買ってもらえることになり、古本屋の落語全集を買ってもらったそうです。

山田洋次の出身中学

小学校卒業後は、東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)に進学しました。

その後、空襲を避けて満洲国の旧制大連第一中学校(廃校)に編入しています。

そして3年生の時、旧制宇部中学校(現・山口県立宇部高等学校)に編入しました。

15歳から18歳までは、山口県宇部市の伯母家で過ごしています。

山田洋次の出身高校

山田洋次さんは、四修の飛び級で旧制山口高等学校(現・山口大学)に進学しました。

在学中に学制改革を経験し、学制改革に伴い高校を1年で卒業しています。

山田洋次の出身大学

高校卒業後は、一浪して東京大学に進学しました。

山田洋次さんは法学部に在籍、偏差値は67.5です。

怠学による出席日数不足で中退するところだったものの、無事に卒業しました。

山田洋次の実家は豊中?生家はまだ残ってる?

山田洋次さんは、大阪府豊中市で誕生しました。

鉄道技師だったお父さんが設計した山小屋風の赤い屋根の家で生活していたものの、2歳から満州、その後も東京や山口などで生活しています。

ただ生家の方はまだ残っているそうで、山田洋次さんは「あの家を写すようなロケーションができたら」と話していました。

山田洋次の生い立ち

1931年9月13日生まれの山田洋次さんの幼少期は、戦争時代でした。

お父さんの仕事の都合で2歳で満州に行ったときは都市計画がなされた街での「女中さん」や「ボーイさん」がいる何不自由ない暮らしだったものの、敗戦の色が濃くなると現地日本人の生活は日に日に困窮していったそうです。

戦争が終わってからも生活は苦しく、当時について山田洋次さんは「生きること、食うことが大事であって、楽しみなんて、考える余裕もなかった」と語っています。

行商や炭鉱の坑木運搬などの重労働や進駐軍の使役などに従事し辛い日々を送っていましたが、皆を笑わせてくれる人がいたおかけで山田洋次さんは心が救われ生きていくことが出来たそうですよ。

そんな山田洋次さんは、元々映画監督を目指していたわけではなく、日本の経済が復興していない時代の就職難で成績を重視しないマスコミや新聞社、映画会社を片っ端から受けた中で松竹に補欠入社、脚本家や助監督を経験し監督デビューしました。

山田洋次の父親

山田洋次さんのお父さんは、山田正さんと言います。

九州大学工学部を卒業後、大阪にあった汽車製造会社で蒸気機関車の設計をしていました。

お父さんは実直で黙々と仕事をこなすタイプだったそうです。

山田洋次の母親

山田洋次さんのお母さんは、山田寛子さんと言います。

満州(現在の中国東北部)の旅順で生まれたお母さんは、女学校を卒業するまで内地の土を踏んだことがなく、開放的で日本的な因習に染まらない女性だったそうです。

そんなお母さんは、山田洋次さんが大学に入る頃にお父さんと離婚しました。

山田洋次の兄弟や姉妹

山田洋次さんには、お兄さんと弟さんがいます。

二人とも一般人のため、情報はありませんでした。

まとめ

戦争時代を経験している山田洋次さんは、波乱万丈な日々を過ごしてきました。

今後も山田洋次さんの活躍に、目が離せませんね。

映画監督
スポンサーリンク

スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました