渋みのある演技と存在感で多くのファンを魅了している内野聖陽さん。
「実家がお寺でお金持ち?」といった噂を耳にして、気になった方も多いのではないでしょうか。
芸能界で活躍する一方で、プライベートな家族背景についてはあまり知られておらず、実際のところどうなのか、調べたくなりますよね。
この記事では、内野聖陽さんの実家の場所やお寺との関係、ご両親の人物像、さらには兄弟の有無まで、幅広くご紹介していきます。
意外な一面が垣間見える内容になっていますので、ぜひ最後までお楽しみください。
内野聖陽の実家はお寺でお金持ち?
俳優としての実力に定評がある内野聖陽さんですが、出身や家族について興味を持つ方も少なくありません。
なかでも「実家がお寺らしい」「裕福な家庭で育ったのでは?」といった噂がネット上でたびたび取り上げられています。
実際のところはどうなのでしょうか。
小机駅の前にあるお寺です。
雲松院です。
小机城の城主、笠原氏が建てたお寺らしいですね。
そして何と!俳優の内野聖陽さんのご実家らしいです。
法事で忙しそうな中、御朱印の対応して頂きました。#小机駅#雲松院#御朱印#内野聖陽 pic.twitter.com/kbtAoaeY6y— もふ (@PEhwuhVL3oHNQQu) April 5, 2020
内野聖陽さんの実家は、神奈川県横浜市港北区にある曹洞宗のお寺「雲松院」です。
このお寺は、戦国時代に小田原北条家の家老だった笠原越前守信為が、主君・北条早雲と父・能登守信隆の菩提を弔うために建立したと伝えられています。
創建は1525年(大永5年)とされており、歴史的にも価値のある由緒正しい寺院です。
このような背景から、雲松院は横浜市内でも比較的知られた存在となっており、史跡である「小机城跡」の近くに位置しています。
寺院としての格式の高さや長い歴史があることから、「実家がお金持ちなのでは?」といった印象を受ける方も多いかもしれませんね。
現在、このお寺の住職は内野聖陽さんの父親ではなく、父親の弟にあたる人物が務めているとのことです。
つまり、内野聖陽さん自身が直接住職を継いだわけではなく、家系のなかで仏門に進んだ親族がいるという形になります。
一方で、内野聖陽さんご本人が「実家は裕福だった」と明言したような発言はこれまで確認されていません。
過去のインタビューなどでも、家柄や金銭的な豊かさについて積極的に語ることは少なく、俳優としての活動に集中している様子がうかがえます。
とはいえ、歴史あるお寺の家系というのは、文化的な土台がしっかりしている印象を与えますし、落ち着いたたたずまいからも、幼少期から精神的に豊かな環境で育った可能性は高そうですね。
このように、内野聖陽さんの実家に関する情報を掘り下げてみると、「お寺の家系」「格式ある出自」「現在も親族が住職を務めている」といった事実が見えてきます。
単なるイメージや噂にとどまらず、実際に由緒ある家系であることがわかると、俳優としての魅力にも一層深みが増して感じられるのではないでしょうか。
内野聖陽の父親
落ち着いた佇まいや深みのある演技で多くの視聴者を魅了する内野聖陽さん。
その人柄や価値観には、厳格な家庭環境が影響しているのでは?と感じたことがある方も多いかもしれませんね。
実は、内野聖陽さんは由緒あるお寺の家系に生まれ、お父さんはその寺院の住職を務めていた人物でした。
内野さんの実家は、神奈川県横浜市港北区にある曹洞宗の寺院「雲松院」。
1525年に創建された歴史あるお寺で、戦国時代の小田原北条家ゆかりの寺院としても知られています。
その雲松院で住職を務めていたのが、内野聖陽さんのお父さんです。
お父さんは、内野さんが生まれた当初から「将来は跡を継いでほしい」という強い願いを持っていたそうで、小さい頃から厳しく育てていたといいます。
あるインタビューでは、「毎朝ご飯の前に“五観の偈”を唱えていた」「足に砂利が刺さるような場所で正座させられた」「時にはげんこつもあった」と、当時の厳しいしつけについて語られていました。
まさに、仏門の家に生まれた者としての覚悟を求められていたのでしょう。
その期待に応えるように、内野さんは東京の仏教系中高一貫校・世田谷学園に進学し、大学も仏教系の大学に合格しました。
しかし、自身の進路を深く考えるなかで「このまま親の決めた道を歩んでいいのか」という迷いが生まれたといいます。
そして最終的に、お父さんの反対を押し切り、早稲田大学へ進学。俳優という道を自ら選びました。
とはいえ、お父さんとしては簡単に割り切れることではなかったのでしょう。
周囲には「おれが死んだらわからんよ。継ぐって言い出すかもしれないから」と語っていたというエピソードも残されています。
内野さんが進路に迷い、いつかまた寺に戻ってくるのでは……という一縷の期待を、どこかで持ち続けていたのかもしれません。
ただ、お父さんは「住職になるのか、ならないのか」といった重い決断を迫ることはなく、最終的には内野さんの意志を静かに尊重していたようです。
2002年、お父さんが亡くなった際の葬儀で、内野さんはこう語りました。「私は中途半端な気持ちで役者をやっているつもりはありません。
このまま役者として歩み続けますので、住職の跡は継ぎません」。
この言葉には、お父さんへの感謝と敬意、そして自らの覚悟がしっかりと込められていたのではないでしょうか。
お父さんとの深い絆と葛藤を乗り越えた経験は、内野聖陽さんの人間性に確かな軸を与えているように感じます。
その精神的な強さは、どんな役を演じるときにも、自然と画面越しに伝わってくるのかもしれませんね。
内野聖陽の母親
内野聖陽さんのお母さんは、一般人のため名前や顔写真などは公表されていません。
お父さんが亡くなり、内野聖陽さんが「お寺を継がない」と宣言してからは絶縁状態になってしまっていたそうです。
しかし内野聖陽さんが離婚したときに子供と会えない寂しさを痛感、そしてお母さんの大切さを感じ、自らお母さんに会いにいって「もう一度親子を始めよう」と関係を修復させました。
その後横浜のアパートでひとり暮らしをしていたお母さんを内野聖陽さんの自宅から徒歩10分ほどのマンションに呼び寄せ、今では内野聖陽さんの子供と3人で会うこともあるそうです。
内野聖陽の兄弟や姉妹
穏やかで芯の強い演技が魅力の内野聖陽さん。
多くの視聴者に親しまれる一方で、家族構成やきょうだいに関する情報はあまり知られていないかもしれませんね。
実は、内野聖陽さんは3人きょうだいの末っ子として生まれ育ちました。
内野さんにはお姉さんが2人いらっしゃいます。
ただし、お姉さん方は芸能界とは無縁の一般の方であるため、名前や職業、家族構成などの詳細は公にされていません。
写真やエピソードなども一切出回っておらず、メディアへの登場歴もないことから、プライバシーを大切にされている様子がうかがえます。
そのため具体的な性格や家族内での関係性などは明らかになっていませんが、2人のお姉さんに囲まれて育った内野聖陽さんは、家庭内では末っ子らしい可愛がられ方をしていたのでは?と思う方もいるかもしれませんね。
ところが、単なる“末っ子”では終わらないのが内野さんの家庭の特徴でした。
というのも、内野さんは3人きょうだいのなかで唯一の男性であり、長男として「寺を継ぐ跡取り」としての役割を期待されていたのです。
実家は、神奈川県横浜市港北区にある由緒ある曹洞宗の寺院「雲松院」。
創建は室町時代までさかのぼり、代々住職の家系が継承してきた歴史あるお寺です。
そうした背景から、「家を継ぐのは長男」という価値観が根強く、お父さんからも強く期待されていたことが、過去のインタビューでも明らかにされています。
たとえば幼少期には、毎朝食前に「五観の偈(ごかんのげ)」を唱えるのが日課だったという話も紹介されており、家庭内ではすでに仏門に入る者としての基礎教育が始まっていたことがうかがえます。
お姉さんたちが自由に進路を選べたかどうかは不明ですが、少なくとも内野さんに対しては、家族や親族の思いが強く注がれていたことは間違いありません。
このように、末っ子でありながら家の後継者という立場を背負って育った内野聖陽さん。
俳優という異なる道を選んだ現在でも、その根底にある「責任感の強さ」や「信念を貫く姿勢」は、おそらくこうした家庭環境によって培われたものでしょう。
また、家族との関係が報道される中でも、お姉さんたちの名前が出てこない点からも、メディア露出を控え、静かに見守る立場でいることがうかがえます。
芸能界で活躍する弟を影で支えている存在かもしれませんね。
家族の中で唯一の男性として生まれ、期待と重圧の中で育った経験は、内野聖陽さんの内面に深く影響しているはずです。
表現者としての厚みや、作品ごとに変化する演技の奥行きには、こうした生い立ちが自然とにじみ出ているのかもしれません。
静かに寄り添う姉たちと、厳格ながら愛情深いお父さん、そして再びつながりを取り戻したお母さん――家族との物語を知ると、内野聖陽さんという俳優の見方も少し変わってくるのではないでしょうか。
まとめ
住職の跡取りとして育てられていた内野聖陽さんですが、お父さんの跡を継ぐことはありませんでした。
そのためお母さんとの関係も一度は壊れてしまったものの、今は親子として良好な関係を築いているようですね。
今は旅立ってしまったお父さんも、内野聖陽さんの俳優としての活躍を温かく見守ってくれているのではないかと思います。